徳川家康に嫌われ、秀忠には改易された六男・松平忠輝の不憫な生涯
1592年に徳川家康の6男・忠輝が誕生しました。
しかし、父親である家康は生母・茶阿局の身分が低く、忠輝の容姿が気に入らないと言う理不尽な理由で、徳川家康の息子でありながらとても不憫な人生を送りました。
家康は、なぜか子供の顔にこだわりがあったようで、忠輝の異母兄弟である結城秀康も容姿が気に入らないと言う理由で冷遇し続けたと言います。
幼少期から楽器の名手であり運動神経も抜群であったと言います。家康の兵法指南役であった奥山休賀斎の元で武術や兵法を会得し、剣の達人にして軍略にも長けたまさに文武両道の人物であり、新潟県上越市では街を上げて徳川忠輝を盛り上げています。
今回は、有能であったが故なのか、父・家康の子供じみたわがままに振り回された松平忠輝の不憫な人生を書いていきます。
生まれてすぐに親に捨て子にされる
家康は誕生したばかりの辰千代(※忠輝)を捨て子の方が強く丈夫に育つと言った【安育祈願】の一環として、一度寺の門前に子供を捨て側近の本多正信に拾わせて、皆川広照に預けられ養育されることになります。※以降忠輝と書きます。
始めて家康と面会したのが1598年の事で、その時もとても嫌がったとされます。
一説には双子で生まれたからとも言われており「人間は1人ずつ生まれるのが当たり前で、犬や猫のように複数人生まれるのは畜生のたぐいだ」と科学的根拠のない話が信じられていました。
そのため、双子が生まれると一人を殺したり無理やり養子に出したりしたそうです。
※史料として残っていないので想像の域を越えませんが、一部の地域ではこのような風習があったのは事実です。
弟の跡を継ぐ事になる屈辱を受ける
松平忠輝が家康に嫌われていたのを探るには、その出世の仕方を見ると分かります。
1599年に家康の同母弟で7男・松千代は、長沢松平氏を継いでいたのですが、早くに亡くなりその家督を忠輝が継ぐことになりました。この時代は、長男から家督を継ぐ事が常識だったため、慣例を重んじていた家康がこのような事をするのは相当嫌われていたと伺えます。
その後、1602年には下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗り、1603年には信濃国中島藩12万石に加増され、松代城主になり家康の腹心・大久保長安が付家老となりました。
他の大名と比べたら少しずつでも加増を重ね12万石の大名となっていたのですが、ずっと年下の初代の御三家【義直・頼宣・頼房】よりも所領が少ないと考えると、顔が原因でこのような仕打ちを受けるのはどうかと思いますね。
結婚を機に待遇が少し改善
忠輝の人生が少し晴れ間に差し掛かったのは、伊達政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)と結婚してからでした。この姫様は誰に似たのかとても勝気な人だったようですが、忠輝自身、武道・茶道・絵画も趣味とした文武両道の人物だったので、この奥様とは上手くやっていたようです。
舅の伊達政宗ともそこそこ仲が良く、忠輝居城の高田城は正宗が陣頭指揮を取って築城したり、大坂夏の陣では実戦経験の無い忠輝の相談役になったりと切っても切れない仲でした。
さすが家康の子、順調の出世の裏では…
1609年頃から、幼き忠輝を養育した、附家老・皆川広照や山田重辰・松平清直の家臣達が、忠輝の素行の改まらないことを駿府の家康に訴えますが、家康から逆に家老に不適格であるとされて皆川・松平清直は改易、山田は切腹となります。
そんな状況の中、1610年には高田藩30万石を加封され、川中島14万石と合わせ45万石を領しました。
やはり家康の子供と言う事だけあり、順調に出世をし御三家に引けを取らない石高を拝領するまでになったのですが、出世街道もここまでで、大坂の陣頃になると何やら不穏な空気が流れ始めます。
この頃から忠輝には乱行の噂が立ち始めます。
同じ理由で、松平忠直(結城秀康の息子)が処分を受けていることを考えると忠輝の乱行もほんとかウソかわかりません。しかし、この噂を好機と見たのか大御所・家康と将軍・秀忠は露骨に忠輝を冷遇し始めます。
また、運の悪い事に同じ時期に忠輝の家老だった大久保長安が大きなミスをしてしまい、主人である忠輝や舅の政宗両方が疑われていました。
そして、大坂の陣になるのですが、冬の陣では江戸城の留守番を押し付けられ参加はしていないのですが、夏の陣では、連絡の不備で秀忠の家臣と押し問答になり癇癪を起こした忠輝はその家臣を手打ちにしてしまいます。
それが原因で合戦にも出遅れてしまい戦う事が出来ず、家康と秀忠にこっぴどく叱られます。さすがの政宗もこれには良い知恵が浮かばず忠輝をフォローする事が出来ませんでした。
これには、有能な忠輝を失脚させ秀忠の地盤を盤石にするための家康の計略だったとも言われています。
父・家康の死に目に会えず
大坂の陣がひと通り済んだ1616年6月家康がついに危篤に陥ります。
冷遇されていると言えど松平忠輝は徳川家康の息子です。
さすがに父の死に目に会いたかったのか、母や家康の側室、
これだけ嫌われても会いたいと思う情があるあたり、やっぱり乱行の噂には疑問符をつけざるをえません。
兄・徳川秀忠により改易と流刑
家康が亡くなると、2代目将軍となった徳川秀忠は忠輝を正式に改易とし流罪に処しました。
送られた先は飛騨高山や信濃諏訪などの江戸とも駿府とも行き来しづらい山間で、これにより、どう見ても赦免の望みはなくなってしまいます。
これほど厳しい処分になったのは、舅である伊達政宗が遣欧使節を送る裏でクーデターを企んでいる噂が立ち、この裏に徳川忠輝が関わっていたか、もしくは名前だけが関与させられていた可能性があると考えられています。
この頃江戸にいたリチャード・コックスというイギリス人商人の日記にも「今の将軍を倒して、政宗と忠輝が新しく王様になる計画があるらしい」という記述が出てきています。
政宗の野心は当時でも有名で、徳川家康や秀忠がこれに近い情報を得ていたとしたら、幕府安寧のためには忠輝を何とかしなければいけないのは当然の事でしょう。そうなると伊達家も排除対象になるのですが、大大名・豊臣家を排除した直後に伊達家と争うと言う選択肢は当時の幕府側にはなかったのでしょう。
そこで出た結論が「穏便に済ませるためには、忠輝の改易が一番」ということなのかもしれません。
不憫な人生ながらも92歳の長命だった忠輝
流刑となった忠輝でしたが、一応身分が高い人物だったので流刑先もきちんとしたお城で晩年を過ごしました。亡くなったのは1683年で92歳というこの時代には珍しい長命でした。すでに秀忠も亡く、五代将軍・徳川綱吉の時代でした。
しかも、亡くなった後も罪人扱いのままで昭和の時代を迎える事になります。
25歳の時に流された忠輝は、人生の四分の三を流刑生活を送っていた事になります。
諏訪の流刑屋敷での生活は、監禁されていた訳ではなく地元の文化人との交流もあり、諏訪湖で泳いだとも記録されています。
罪人のまま死去し、昭和になった現代も歴史上罪人のまま歴史に名を刻んでいましたが、没後300年経った昭和59年(1984年)にやっと現在の徳川宗家から赦免される運びとなりました。
その理由が諏訪にある忠輝が葬られている貞松院の住職が【忠輝公が“赦免してもらえないか”と夢に出てきた】からだったそうです。たしかに大部分が本人の知らないところで着せられた罪で、こんなに長く流罪になってたら化けて出るのもわかる気がします。
それでも祟りらしいものがないあたり、忠輝という人物は本当は優しさを持っていたのではないのでしょうか?
松平忠輝の人生の最盛期は高田藩主時代の2年間で、妻の五郎八姫と暮らし、義父の伊達政宗と異国文化への夢を募らせていた事でしょう。有能で領民からも愛され、実の父と兄に危険視されていた忠輝ですが、当の本人は政治・自己顕示欲がなく幕府側からの仕打ちにも不満を言わなかったとされています。
そんな、忠輝が一つだけ漏らしたのは…
「できることなら、五郎八と高田で静かに暮したかった…」
2年と言う短い藩主でしたが、とても高田の街と妻を愛していた一言だと感じます。
実は家康に嫌われていなかったとも…
ここまで忠輝は、父・家康に嫌われ不憫な人生を送らされたエピソードを書いてきましたが、実は嫌われてはいなかったのでは?と言う逸話も残されています。
それが、野風の笛伝説です。
家康は自らの死期を悟ると、2代将軍・秀忠の前で忠輝の生母・茶阿局に【野風の笛】を忠輝に渡すように託しました。野風の笛とは、織田信長が愛し、秀吉、家康に伝えられた【天下人の笛】と呼ばれるものでした。令和の現在も先述した貞松院に残っているとの事です。
野原でひとたび野風の笛を吹けば、大地から10万の鎧武者が現れるとされており、それはキリシタンであった忠輝を密かに味方していた10万ものキリシタン武将達の存在を意味していたとされ、秀忠を奮い立たせるためと言います。
それは「忠輝を邪険にするべからず」と家康から秀忠への無言のメッセージを送ったと共に、忠輝には「この笛を吹くことが無いように」と伝えたのでした。
家康のどのような意図で忠輝に笛を渡したのか分かりませんが、「長生きし、江戸幕府の目の上のたんこぶであり続けろ」と諭したとされます。実際に家康死後、幕府は人望・才能に溢れる忠輝の存在を恐れ改易・流刑にし牽制し続けていたようですし、忠輝が諏訪の地で亡くなった際には江戸から検分の役人が使わされたとされています。
諏訪市の貞松院の住職によると、野風の笛は保存状態が良く吹こうと思えば今でも吹くことができるのではないかという事です。