室町幕府最後の将軍・足利義昭の放浪人生
武家政権である幕府は日本の歴史上3つありました。
鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府、その中で室町幕府は一番軟弱な組織だと言われています。その理由として、守護大名の領土が将軍家よりも大きく、力があったためと言われています。それを是正するために足利義満・義教は尽力しましたが、失敗に終わっています。
そんな力が弱かった幕府だったからこそ、戦国時代という下克上の時代が訪れたのかもしれません。しかし、力は衰えたとは言え、地方ではその権威は生きていましたし、利用して中央を掌握しようした、大名はたくさん居ました。
今日は、そんな軟弱な室町幕府の15代将軍・足利義昭について書いていきたいと思います。
足利義昭の誕生と放浪公方
足利義昭は1537年に12代将軍・足利義晴の次男として生まれました。
兄は13代将軍足利義輝でした。足利家では、家督の相続権の無い次男以降は、後継者争いを無くすために、出家する慣例がありました。そこで、義昭は6歳の時に関白近衛家の養子になり、出家し【覚慶】と名乗りました。
後に、興福寺一乗院門跡権少僧都に就任し、このまま高僧として生涯を全うするはずでしたが、時は戦国時代。1565年5月に松永久秀や三好三人衆による永禄の変が起き、13代将軍・義輝と母・慶寿院が暗殺され、義昭の弟も殺害されました。
この時、義昭にもその刃は向けられようとしましたが、近い将来、大和の守護大名でもある興福寺の別当に就任することが決まっており、この地方の強大な勢力であった興福寺を敵に回すことを恐れた松永久秀は、義昭を暗殺せずに軟禁するにとどめました。
7月には、将軍の側近であった一色藤長、和田惟政、細川藤孝が義昭を救出したことにより、自身の将軍就任の可能性が見え、室町幕府の権力を取り戻すことを考え始めます。
ここから義昭の放浪時代が始まります。
初めは、和田惟政を頼り、甲賀に身を寄せていました。
このとき、上杉謙信や武田信玄などの有力大名に室町幕府の再興のため義昭を奉じ上洛の手助けをしてくれるように書状を送っていました。しかし、現実問題として当時の大名達は自分たちのことで精一杯で足利家の事まで手が回りません。
上杉・武田・北条氏の有力大名家も京から離れており、しかも互いに争っていたので協力を仰ぐのは難しい状況でした。
1566年2月17日に六角氏の許可を得て、甲賀から都に近い矢島に御所を構え還俗して【足利義秋】と名乗りました。さらに、管領家・畠山氏、関東管領・上杉氏らに協力を依頼し、将軍になる者が付く官職、従五位下・左馬頭を叙位します。
この行動に、三好三人衆らは矢島御所を襲撃しましたが、奉公衆の活躍もあり撃退しています。矢島御所で上洛の協力を各大名家に頼んでいた義昭は、織田信長の協力を取り付けることができ上洛の準備にかかりました。
織田信長の上洛戦と15代将軍足利義昭
義昭は織田信長の協力を取り付けると、上洛の障害を排除するために織田氏と斎藤氏の停戦を取り付けます。また、近江の六角氏の協力も得たことで織田信長が義昭を奉じて上京する事となりました。
しかし、信長が上洛の兵を美濃へ向けたところで、斎藤氏の離反に合い、この時の上洛は断念することになります。また、近江の六角氏が三好氏と内通していることが発覚し、若狭の武田氏の所に身を寄せることになります。
上洛を果たすには美濃国の斎藤氏を倒すしかなくなった織田信長は、かねてから敵対していた斎藤氏との戦闘を再開します。そして、1567年に稲葉山の戦いにて斉藤龍興を倒し美濃国を平定することになりました。
一方で義昭は、三好氏による襲撃の危険があった事から、近江国を脱出して越前国の朝倉義景のもとで上洛の機をうかがっていました。美濃を攻略した信長は、1568年再度義昭を上洛させるために岐阜国内で会見をしました。
1568年9月7日、織田信長は義昭を奉じ上洛を開始します。
すでに三好義継と松永久秀は、三好三人衆と決別しており義昭上洛に協力し、反義昭勢力をけん制するために動いていました。最後まで抵抗していたのが、南近江の六角氏で、9月12日には織田信長の攻撃を受け観音寺城を放棄しました。
大津まで織田軍が侵攻すると、大和国で三好三人衆とぶつかり撃破します。
三好氏の残党達を一掃した信長は、ようやく上洛を果たすことになります。
こうして、15代将軍になった足利義昭は、信長に命じて二条城を整備をします。この将軍低は、二重の堀で囲い、高い石垣を新たに建築するなど、洛中の平城と言っても良いくらいの大規模な城郭となりました。
この二条城には、室町幕府に仕えていた代々の奉公衆や旧守護家などの者が次々参勤し、義昭の念願であった室町幕府が再興されたのでした。
織田信長との対立
幕府再興を完全なものとしたい義昭と武力による天下統一を目指していた織田信長との考え方の違いにより関係は徐々に悪化していくことになります。
信長は将軍権力を制約するために、1569年に殿中御掟と言う9箇条の掟書を義昭に承認させた。さらに1570年1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。
この殿中御掟は、これまで信長が義昭の将軍権力を制約しようと出したものと考えられていましたが、最近では信長がこれまでの先例などを吟味し、室町幕府の再興の理念を示したものと言う考え方が出てきました。
また、信長は義昭を傀儡化しようとしたのではなく、きちんと室町幕府の組織が機能していた事が分かっており、両者の対立劇は義昭個人の将軍権力の専制化を求めた結果だと言う説もあります。
いずれにせよ信長の対応に不満を持った義昭は、上杉謙信や毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢に御内書を書き始めます。将軍・義昭のもと各有力大名が呼応するかのように、信長包囲網を形成することになります。
この包囲網は、かねてから織田家と敵対関係にあった浅井氏、朝倉氏、松永久秀、三好三人衆などが加わっていました。信長包囲網に関しては、こちらで詳しく書いたので呼んでみてください。
信長包囲網に武田信玄が加わり上洛を開始すると、義昭も挙兵します。
武田信玄が三方ヶ原で徳川家康の軍勢を破ると、信長は窮地に追いやられます。
1573年に信長は、義昭に和睦を申し出ますが拒否します。
ところが、上洛途中の武田信玄が1573年4月12日に死去したため、武田軍が甲斐国へ撤退を始めると、義昭の信長包囲網は崩れていきました。
武田の脅威が去った信長は、京の義昭のもとへ兵を向けました。幕臣であった細川藤孝や荒木村重は、義昭を見限り信長の家臣となりました。それでも、義昭は城に篭り信長に抵抗しました。
4月5日には、信長の朝廷工作により勅命による講和が成立し争いは終結したように見えましたが、7月3日に義昭は講和を破棄し、山城国の南の槙島城で再び挙兵します。しかし、18日には織田軍7万の軍勢に攻められ義昭は降伏することに。
現職の将軍を追放するわけにはいかず信長は、義昭の息子である義尋を後継者として建てる約束をしますが、義昭はすぐに約束を反故にします。
どうにもこうにもならなくなった信長は、義昭を京都から追放し、足利将軍家の山城・近江・若狭などの領土を織田領としました。これまで信長は、義昭を擁することで間接的に天下人として権力を掌握していましたが、義昭追放によって信長自身が天下人しての地位を目指しました。
備後国での義昭亡命生活
追放されたとはいえ、200年あまり続いた室町幕府の中で、足利氏以外のものが征夷大将軍がなることはありえないと言う風潮もあり、信長自身も義昭に代わる征夷大将軍は求めず、朝廷もあえて義昭の将軍解任の動きも見せませんでした。
そのため、追放されてもまだ将軍職だった義昭は、かつて10代将軍・義稙が復帰したように義昭も京へ凱旋する可能性も考えられていました。また、将軍職としての政務も行っていたようで、大名を室町幕府の役職に任命するなどをしていたようです。
京を追放されても将軍としての権威は、近畿周辺や信長の勢力圏外では追放される前と同じくらい保ち続け、地方の大名達からの献金も受けていました。
行き場を失った義昭は、本願寺顕如の仲介で三好義継の河内若江城へ移りました。その護衛には、羽柴秀吉が付いたとされています。しかし、三好氏と織田氏が険悪になると、堺の街に移りました。
1574年には、管領家畠山氏の勢力が残る紀伊国へ身を寄せることになります。
義昭はそこで再び信長包囲網を形成すべく、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に和睦をするように呼びかけるが、武田と上杉のみが和睦となった。
1576年になると、10代将軍・義植が大内氏の支援のもと京都復帰を果たした地を収める、毛利輝元を頼り備後国の鞆(とも)と言う地域での亡命生活を送ることになります。そんなことから、この頃の事を鞆幕府と呼ばれています。
亡命生活は、備中国の年貢と日明貿易で財を成していた宗氏や島津氏の支援を受けある程度の収入はあったようですが、征夷大将軍としての権威を維持し、信長包囲網を行っていたので費用がかさみ、贅沢な暮らしをしていたわけではないようでした。
毛利氏が自分を奉じて上京しないのが、北九州での大友宗麟の存在があるからだと考え、島津氏や龍造寺氏に大友氏討伐の御内書を送りました。これが、島津義久の大友領侵攻の大義名分となり、日向国で大友氏と島津氏が激突する耳川の戦いが起こります。
足利義昭が京都へ帰還
1582年6月2日、亡命中の義昭に吉報が届きました信長が本能寺の変で明智光秀に打たれたのです。これを好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めましたが、小早川隆景により却下されることに。
織田信長の跡を継ぐように、羽柴秀吉が力をつけ1585年7月に秀吉が関白太政大臣となります。これにより、【関白秀吉と将軍義昭】が同時に存在することに…
秀吉の九州討伐の際には、将軍として島津義久に和睦を勧めますが義久に一蹴され秀吉の九州討伐が始まります。
1587年に九州討伐の途中の秀吉と面会し、再び島津義久に和睦を勧めるが島津氏は徹底抗戦の構えでした。しかし、10月には島津氏が秀吉の軍門にくだり、義昭は念願の京都へ帰還することができました。
1588年に秀吉に従い参内し、将軍職を辞し出家し【道休】と名乗りました。
秀吉から、山城国槇島において1万石の領地を認められました。1万石とはいえ、前将軍だったので、その待遇は大大名以上でした。
晩年は、斯波義銀・山名堯熙・赤松則房などの御伽衆に加えられ、太閤殿下のよき話し相手だったとされています。1597年8月に江戸幕府の成立を見ずに享年61歳でその生涯を閉じました。
嫡子は義尋とされましたが、女断ちをして子を設けなかったことから、足利家嫡流の血が途絶えることになりました。