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武士はどのようにして生まれたのか?イラストを交えて解説!!

歴ブロ

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人類の歴史上、ほとんどの時代には身分制度がありました。

皇族や王族などの君主層、それを支えたり利用する貴族層とほとんどの割合を占める庶民層などがありますが、中でも武士や騎士などの武力と権力を持った層は、歴史好きの間では人気があり創作物も多く作られています。

そこで今回は、平安時代の頃から登場した武士について書いていきたいと思います。

 

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基本的な武士の始まり

詳細は後述しますが、基本的には

土地制度の変化によって生まれるようになったトラブルを解決するために

武器を装備して解決しよう!というのが武士の始まりです。国司はあくまで役人でしたから武芸に向いていない者も当然いた訳で...肉体労働している血気盛んな者達を止めるのが難しい場面も出てきます。

こうして

  • 役人に頼らず開拓した自分の土地を自分で守ろうとする者
  • 肉体労働者から税を取り立てるため武装化した役人
  • 武装化した者を倒すために派遣された武装化した貴族

など多岐に渡ったパターンから武士となっていきました。

 

武士になった起源を見てみよう

先程言ったように武士の起源は複数あると言われており、「武士」と呼ばれている人々の成り立ちには、以下のようなパターンがありました。

武士の起源

  1. 土着した貴族だったり地域住民
  2. 武力で朝廷に仕えていた者「もののふ」武官とも呼ばれ者
  3. 合戦に参加する者「つわもの」(兵)
  4. 公家に仕え、家政・警固を担当する者「さぶらい」(侍)
  5. 奥州藤原氏など地方へ土着して一大勢力圏を築いた者
  6. 東北の安倍氏・清原氏などの中央政府と関係ない独自の勢力
  7. 荘官(荘園の現地責任者)や郡司が武装した
  8. 有力な農民が自分の田畑を守るために武装した

実際に『武士』の単語が定着するのは平安時代後期の平清盛が活躍したあたりの時期と言われています。

 

武士の起源が複数ある理由とは?

そもそも日本では、軍事関連の仕事を(税として)課せられていたため地域住民が武装化するのも、そこまでハードルの高いものではありませんでした。

防人(辺境警備兵)や衛士(宮中警備)などの一般人を期限付きで登用し、軍事的な仕事をする制度があったのです。庶民たちが武器を日常的に使っていたからこそできた制度とも言えます。

 

こうした流れに変化を加えたのが桓武天皇です。

地方役人である郡司の一族から武芸の得意な者を選出して編成をする【健児制(こんでいせい)】を拡大しました。これにより、武芸が不得意な者の負担を軽くしました。それでも、農民の中から軍事を賄う事は変わりがなかったので、自主的に武芸に励んでいた者も少なくなかったでしょう。

②の朝廷に仕えていた「もののふ」と呼ばれた武官は、この健児制由来の武士ですね。征夷大将軍の官位をもらった公家である坂上田村麻呂がその代表です。

後述する源氏平氏などは、の公家に仕えて一族全体の地位が向上したさぶらいの典型例といえましょう。

 

土地トラブルの原因とは?

土地トラブルの種類としては『開拓した者同士によるトラブル』以外にも(税の取り立てをするようになって)力を付けるようになった『国司の強引な取り立て』やその取り立てを避けるために増えた『荘園と国司のトラブル』など時代が下ると多岐に渡るようになりました。

どんなトラブルが起こったのかを確認するためにも、墾田永年私財法が出来る前の土地制度の変遷も確認してみることにします。

 

初期の土地制度

そもそも政権が土地を管理し始めたのは大化改新の時代にまで遡ります。最初に目指したのは「人民・田地は天皇に帰属する」というものでした。ところが、この制度には決定的な欠点がありました。

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自分のものじゃないのでやる気が出なかったのです。これでは収穫量は増えず、税(租庸調)の取り立ても上手くいくわけがありません。米以外の税負担もかなりのもの(労働力確保のために土地に縛り付けた、って見方もあるほど)で逃げ出す農民が出てきてしまいました。

そこで別の決まりを決めていきます。

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 ところが、このルールも上手くいきません。そこで作ったのが墾田永年私財法です。

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更に言うと、聖武朝は疫病が流行ったり反乱が起こったりして社会が大混乱中。社会を鎮めるため大仏建立を考えている時期だった(墾田永年私財法は大仏建立の詔の5ヶ月前に出されています)ので、税収と労働力を早く確実に確保したいという事情がありました。そんな事情が墾田永年私財法に繋がったとも言われています。

これを機にやる気を出せたのですが・・・

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特にやる気を出したのは主に貴族や大寺院でした。

私有地になる法ができ、一般の農民たちを使って未開墾の土地を開拓させていきます。あまりに未開墾の土地ばかりを開墾させるため一般の農民たちが所有していたはずの土地は荒れ果てていきました。

更に有力者たちは、そういった耕作放棄地を集めて開墾し、ますます貧富の差が広がります。貧富の差が拡大すると治安が悪化。治安が悪化すれば「自分の身は自分で守ろう!」とする者も増えていくことになります。

あまりにも有力者に優位すぎるとして墾田永年私財法を禁止しますが、反発が強くすぐに取りやめ。朝廷の衰退が明らかになった一件でした。

 

荘園の誕生と藤原氏の台頭

これまで伝えた原因の他にも国司が力を付けたことや荘園が増えたことが原因のトラブルも増えるようになりました。この両者が力を付けた経緯や増えた理由も見ていくことにしましょう。

そもそも国司とは中央から派遣された役人のことです。

税を取り立てていたのは郡司。国司が税を含む行政を執り行い、その下の郡司が徴税権を持ち、さらに下の里長(715年に郷長に改名)が実際に徴税を行っていました。

ところが、これまでの土地は公有地で新しく開墾した地が私有地なわけですから私有地と公有地が入り混じった状態となって、それに伴うトラブルが多発。

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いつの時代でも中間管理職はつらいものです。

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それでも最終的に痛い目に遭うのは一番下の弱い立場の人たちです。

一般の貧困に苦しんでいる農民たちは戸籍を捨て貴族や大寺院の元に逃げ込んで労働力を対価に守ってもらう者が多くなっていきます。こうして貴族や寺院の管理する荘園ができていきました。

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その中で最も勢力を拡大していったのが 藤原氏

農民が土地から逃げて貴族や寺院の下に逃げ込むようになると税収が一気に少なくなりました。税収が少なくなると次第にこれまでの制度が崩壊。

直接税を取り立てていた郡司・郷長の地位が低下し、その権限を国司に吸収させて業務の一本化を図るように。こうして国司の力が強くなっていきます(郷長は10~11世紀頃にはなくなっています)

代わりに国司(一番お偉いさんは受領と呼ばれるようになった)が使った者が田堵と呼ばれる有力農民でした。田堵の中には国司に取り入って勢力を拡大し、後々『大名田堵』『開発領主』と言われるまでに成長した者も出てきます。

貴族や寺院の荘園だけでなく開発領主による私有地もどんどん増えていったのです。

 

武士の誕生

ところ変わって、朝廷に目を向けてみましょう。

藤原氏はじめ多くの貴族が荘園を持ち、政権内での発言権を増している状況です。それぞれの荘園の権利を拡大させようと動きます。そこで獲得していったのが

不輸の権利 です。

不輸の権:税は払わなくても良いよ、という権利

そのうち、不入権(立ち入り禁止)を獲得する有力貴族も出てきます。結果、どちらも持っている有力貴族による名義貸しが横行することになりました。

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開発した土地を寄進し、取り分を渡す代わりに名前を借りて不輸・不入の権利を行使。

いわゆる寄進系荘園が増えていきます。

 

班田収授法の崩壊と荘園の発達 飛鳥時代からの土地制度では荘園の原型となるような初期荘園についてまでを書きました。今回のテーマは、荘園の発達と班田収授法が成り...

 

不輸・不入権をかざされると国衙に入れる分の取り立てが少なくなるわけですから国司たちは無理やりでも入ろうとします。

結果、荘園の持ち主と国司とのトラブルも増えていったのです。

 

様々な場面でトラブルが増えてきた結果、武装化した農民たちや荘園関係のトラブルで不満を溜めた貴族出身者による反乱などが発生するようになり、その鎮圧のために武装化した押領使・追捕使と呼ばれる中・下級貴族たちが送られていきます。

こういった押領使追捕使と呼ばれた者が現地に残った結果、武士となる者もいたようです。こうして土地や血縁単位で武装し団結していくようになりました。

 

源氏と平氏の誕生

ちょうど似たような時期、子沢山な天皇が数人出てきます。税収が低下している中で皇族を多数養うのは非常に厳しい。そこで行ったのが臣籍降下(姓を与えられて臣下の籍に降りること)です。

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元親王たちは都に多数いる皇族の中の一人。下手すると30人以上もいる親王・内親王がいる中で臣籍降下しているわけですから、都にいてもいずれ市井に紛れていくのが知れています。そんな理由から一族で地方に赴きました。

武力トラブルを解消するには少人数で対応するよりも人数を集めた方が有利に進められることも出てきます。そこで武士たちは臣籍降下した元親王や子孫を中心として更に大規模な集団を作り上げていきました。

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その中で頭角を現していったのが平氏源氏平氏・源氏になったのは桓武天皇(桓武平氏)清和天皇(清和源氏)の臣籍降下した元親王たちとなります。この大きくなった組織は武家と呼ばれる軍事貴族と呼ばれるまでに成長していきました。

 

平清盛は桓武平氏の子孫、源頼朝・足利尊氏は清和源氏の子孫です。

清和源氏は定着した拠点の場所によって、摂津源氏・大和源氏・河内源氏などの支流に別れます。頼朝・尊氏は清和源氏のうちの河内源氏の出身と言われています(家康もまた河内源氏の出身を名乗っていますがあくまで自称)

朝廷や貴族たちは日に日に勢いを増し実力をつけた武士達に目を向け始め、貴族や都の警護にあたらせたり宮中の警備を担ったりするようになります。政界進出も始まり、次第に朝廷内でも大きな影響力を行使するようになりました。こうして徐々に武士は力をつけていったのです。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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