古墳はなぜ作られるようになったのか??
日本各地に小山のような大きな古墳と呼ばれる遺跡がのこっています。
これらは、3世紀後半~6世紀後半に国を治めた王や豪族のお墓です。この時代を日本市場では古墳時代と呼ばれ、文字のない文明の中では恐らく日本史上で最も栄えた時代とも言われています。
この時代を境に、縄文・弥生に芽生えてきた文化の集大成ともいえると思います。同時に今後の日本の国家を形作るきっかけになった時期でもあります。
今回は古墳が作られるようになった経緯を踏まえながら、弥生時代中期から後期にかけての流れを書いていきたいと思います。
古墳とは何??
古墳は土地を治めていた天皇や権力者のお墓です。
そのため、天皇をはじめ地方の豪族達も古墳に埋葬されました。
その遺体は、古墳の中にある竪穴式石室の中、割竹形の木棺に埋葬され、副葬品として三角縁神獣鏡と呼ばれる、多数の銅鏡と共に埋葬されました。
また、古墳には権力者と一緒に埋葬される人や馬もいたとされています。
古墳というのは、1人の権力者を手厚く葬ると同時に、権力者の権威を表すための政治的、宗教的な意味合いを強く持つようになります。
日本で最も有名な古墳は、大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳で、5世紀頃に作られました。
一口に古墳と言っても様々な大きさと形があり、そのスタイルでそこに埋葬されている人物の格がわかります。
- 一位:前方後円墳
- 二位:前方後方墳
- 三位:円墳
- 四位:方墳
と言うようなランク付けがされており、これは大和王権が決めたそうです。
全国的に見ても、前方後円墳には古い物や大きい物があります。
なぜ古墳が作られたのか??
古墳が作られた理由の一つとして箸墓古墳と呼ばれる古墳が関係あると言われています。
箸墓古墳と言うのが、日本最古の古墳と言われあの邪馬台国の卑弥呼の物ではないかと言われているのです。とは言うものの、箸墓古墳が作られた時期と卑弥呼の生きた時代が異なっているので噂の域を超えていません。
卑弥呼は女王であったにも関わらず、亡くなってからも九州の地で墓を大々的に作ることが許されていませんでした。そのため、その権力からすると卑弥呼の墓はとても小さな方墳と呼ばれるものとされています。
邪馬台国の女王だったにもかかわらず、格付けランキングが4位なのは信じられません。
そんな卑弥呼を追悼する意味で作られたのが、巨大な前方後円墳である箸墓古墳であるとされているんです。これがきっかけで権力を持った人物に対して、その人を信仰する人々によって巨大な墓、前方後円墳を作るようになったというのです。
古墳の巨大化
古墳が巨大化したのは、弥生時代~古墳時代にかけての戦乱だと言われています。
空白の4世紀と言われている弥生時代から古墳時代の間には、地方の豪族同士の争いが絶えませんでした。中国の史書【魏志倭人伝】には、倭国大乱と書かれています。
こら大乱に終止符を打ったのが卑弥呼で、しばらくは平和な時代が訪れました。卑弥呼が死去すると、男性の王がたちますがまた戦乱が続き、後に卑弥呼の結縁である台与が王になると平和になり女性が王になると平和になるというジンクスが生まれました。
しかし、国内は長引く戦乱で土地が荒廃し、多くの人命が失われ労働力も低下。さらに、寒冷化のトリプルパンチで稲作に深刻なダメージが起きます。
すでに日本では主食が米だったので食糧問題まで発展します。
小国の支配者たちは、権力闘争をしている場合ではなく、稲作に力を注ぐようになり次第に民衆の支持を得るのが難しくなります。
そこで権力者たちがとった行動と言うのが、古墳の造立と言うわけです。
水田を作るときに残土が出来ます。
この残土が多ければ多いほど、水田は耕され米の収穫量が増え、民衆は飢えずに済みます。さらに権力者はこの残土を利用して大きな古墳を作る事にしたのです。
古墳の大きさは、コメの収穫量の高さを表し、権力者の階級を誇示できると言った政治体制となっていったのです。
古墳を構成する要素
古墳は土や石を持っただけの建造物ではなく、様々な要素からなっています。
古墳の主な形状は、上記にも書いた【前方後円墳】【前方後方墳】【円墳】【方墳】があります。その表層部に埴輪や葺石が並べられており、内部には石室と言ったものがあります。
古墳の形状
古墳の形状で最も有名なのは、鍵穴の形をした【前方後円墳】です。機内を中心に全国に分布する前方後円墳は5200ほどあり、全長200メートルを超える古墳は全て前方後円墳とされています。
古墳時代の始まりを告げるのも、前方後円墳で古墳時代後期まで作られました。これに似た形として前方後方墳と言うのがあります。
円墳の特徴
古墳の中で一番多く分布するのが丸い形をした【円墳】です。
円墳は、古墳時代を通して、前方後円墳が作られなくなった終末期まで作り続けられました。古墳時代後期の群集墳もほとんどが円墳です。
方墳の特徴
古墳時代後期に注目されるのが【方墳】です。
前方後円墳が大王の墓として採用されなくなってから、蘇我氏とのつながりを持つ大王の墓が方墳に変わりました。また、蘇我氏の勢力が落ちると、大王墓は八角形の八角墳に変化をして、双円墳・上円下方墳などの様々な形状が登場します。
表層に置かれた埴輪や葺石
古墳の表面に置かれる点では共通しているのが埴輪と葺石です。
これらは、墳丘表面を彩る飾りと言ったところでしょか??
埴輪は弥生時代の墳丘墓に設置された土器から発展したもので、大きく分けて円筒埴輪と形象埴輪があります。形象埴輪には、馬・鳥・人物などの変わり種も見つかっています。
葺石は、墳丘斜面に並べられた石材の事で、墳丘を荘厳に見せる効果と墳丘表面の土砂の流出を防ぐ2つの効果があったと考えられています。
埴輪と葺石が復元されている兵庫県神戸市五色塚古墳写真
埋葬施設
古墳の内部には、使者を葬る設備【埋葬施設】は、時代が経つにつれて【竪穴】⇒【横穴】式へと変化しました。
竪穴は、古墳時代前期や中期に見られ、上から穴を掘ったような形状の埋葬施設です。
竪穴石室は、石材を重ねて作った石の部屋に遺体を納めた棺を置き、上から石材と土で密閉する方法です。
一度内部に収めてしまうと遺体と副葬品をあとから出したり、別の遺体や副葬品を追加をすることが出来ません。
一方で横穴系は、横に洞窟のような入り口があるタイプの埋葬施設です。
出入口を設け、石材を積み上げて作り【横穴式石室】と呼ばれています。
横穴式石室の最大の特徴は遺体を納めたあとでも石室への出入りが可能であること、そのため新たに遺体・副葬品を追加できるのメリットです。
古墳時代後期には、この横穴式石室の採用が多く群集墳の形成に伴って普及しました。
古墳が作られなくなった理由
5世紀にはいると天皇の古墳の小型化し全国的にも作られなくなります。
どうしてなのでしょうか??
仏教の始まり
仏教は538年に日本に入ってきたと言われています。仏教が広がり、律令国家の基礎基盤が出来上が事で次第に古墳が作られなくなるようになります。
仏教派の政治権力者である蘇我氏が、天照大御神を崇拝する物部氏との争いで勝利した結果、仏教が広まることになりました。
仏教が広まるという事は、遺体は寺院に埋葬するスタイルになるという事です。
こうして、権力者たちの古墳離れが進み、次第に古墳の姿が無くなっていくことに…
支配者層は次第に古墳離れを起こし、最終的に古墳は姿を消していくこととなったのです。
また、聖徳太子の出現により604年に十七条の憲法を定め、仏教を推進し、天皇中心の国家体制の基礎を作り上げていきます。その結果、権力者は古墳で権力誇示をする必要が無くなったのも大きな要因でしょう。
地方豪族の統一が始まる
645年に蘇我氏と中大兄皇子&中臣鎌足が争った【乙巳の変】が起きます。
乙巳の変では、大きな政治力を持った蘇我氏一族を、中大兄皇子と中臣鎌足が排斥し、天皇も皇極天皇から孝徳天皇へと譲位し、新たな政治を築きました。
これが大化の改新と呼びます。
646年の改新の詔が発布された時に、埋葬に関する勅令が発布されました。
それが薄葬令と呼ばれます。
この法令は、身分の応じて墓のサイズを制限すると言う内容でした。
- 天皇陵の造立は7日以内である事
- 石室のサイズ制限
- 副葬品の制限
- 権力者の為の人や馬の殉死葬禁止
この薄葬令でこれまでの民衆の負担や殉死をなくそうと言った意図がくみ取れますが、これまで自由に古墳を作っていた地方の豪族に対しては、巨大な古墳を作らせず大和政権に権力を集中させる意図があるとされています。
古墳とは土地を治めていた権力者だけのために作られたお墓。権力者の権威を表すための政治的、宗教的な意味合いを強く持つものだった。
この記事のまとめ
- 竪穴~横穴式石室に代わり、副葬品や一緒に人や馬も埋葬された
- 古墳の形状と規模で権力の格付けがされる
- 大和朝廷に従う豪族だけが前方後円墳を作ることが許された
- 古墳が作られたきっかけは卑弥呼の古墳から!?
- 古墳の大きさはコメの生産高に比例し、権力の誇示が出来た
- 仏教の登場で埋葬スタイルが変化し古墳が作られなくなる
- 大化の改新の薄葬令により埋葬方法が決められた
- 天皇中心の政治が始まり古墳が姿を消す