孝謙天皇と道鏡の危ない?関係と藤原仲麻呂の乱
聖武天皇の逝去により権力のバランスが崩れ藤原仲麻呂が力をつけてきました。政治の中枢で力を強め邪魔者を排除する【政治闘争】が始まります。
まず、藤原仲麻呂が蹴落としたのが、当時、藤原氏に代わり政治のトップについてた橘諸兄と奈良麻呂親子でした。この政治闘争で蹴落とされた橘奈良麻呂はその報復として、橘奈良麻呂の乱を起こし藤原仲麻呂を排除をしようとしましたが失敗に及びます。
聖武天皇の逝去に伴う孝謙天皇の即位
聖武天皇は、国分寺や国分尼寺の建立、奈良の大仏の造立などの歴史的な事をしました。しかし、志半ばで逝去し749年の奈良の大仏の開眼供養には聖武天皇の娘、孝謙天皇が儀式を行いました。
聖武天皇と光明皇后との間には一人だけ皇子がいましたが夭折したため、白羽の矢が立ったのが安倍内親王で後の孝謙天皇だったのです。
この光明皇后と藤原仲麻呂の関係が叔母と甥の関係でした。
そんな孝謙天皇の時代では、藤原仲麻呂が光明皇太后の後ろ盾を得て政界で勢力を伸ばしています。それまで力を持っていた橘諸兄の子の奈良麻呂は、そんな状況に危機感を覚えて仲麻呂を倒すことに乗り出しますが、逆に滅ぼされるという事態に陥りました。※橘奈良麻呂の変
そんな中、孝謙天皇は母親・光明皇太后が病気のために758年に淳仁天皇に譲位し、太上天皇(=上皇)となります。淳仁天皇の後ろ盾としてついたのもやはり藤原仲麻呂でした。この時に仲麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、ますます経済的特権や権力を独占。しまいには太政大臣にまで昇りつめます。
しかし、760年には光明皇太后が死去し恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后がいなくなることで孤立を深めました。
孝謙天皇(上皇)と道鏡の関係
一方の孝謙上皇は761年に病に倒れ、その看病に僧の道鏡が当たります。
当時の医者は、僧侶のこと指していました。病人の看護を行いながらお経を唱えたりして仏の加護により病気を治そうとしていました。現代から考えるとそんな医療はあり得ませんが、道鏡が看病すると見る見るうちに孝謙上皇の体調が良くなりました。
次第に孝謙上皇は、道鏡の仏法を信じるようになり、側近として寵愛するようになります。
しかし、この二人にはある疑惑がありました。
それは、二人は出来ていたのではないか?と言う事です。
2人の男女が……だそうです。
その疑惑が持ち上がったのは、孝謙上皇の立場を考えると解らなくもありません。
当時、女性天皇の役割として皇位継承のつなぎ役として、天皇候補である皇子が定まっていない場合や幼い場合に女帝が誕生します。そして、この頃の女帝は生涯独り身であることが一般的でした。
これは、飛鳥時代に女帝であった推古・斉明・持統天皇は天皇の妻と言う立ち位置で天皇になる事が出来ましたが、壬申の乱以降に天武の血が重視されるようになり、女帝の役割も厳格化され、未婚・未亡人と言う条件が加えられたとされています。
そんな孤独で寂しい立場で、病床で看病してくれる道鏡に恋愛感情を持っても何ら不思議はないと思われます。しかも、道鏡は夜のテクニックがすごいとも言われています。
藤原仲麻呂の孤立
上記の説が合っているかは噂の域を超えていませんが、孝謙上皇が日に日に道鏡を寵愛していったのは事実です。その度が過ぎた寵愛に藤原仲麻呂は焦りを隠せません。
現在、淳仁天皇の下で行っていた藤原仲麻呂の独裁政治が道鏡によって脅かされる危険性が出てきたのです。以前、孝謙上皇に藤原仲麻呂の言う事を聞いていれば大丈夫と言ってくれていた光明皇后が亡くなった今、仲麻呂の基盤は非常にもろい状態になります。
そこで、仲麻呂は淳仁天皇を通して、孝謙上皇にたかが僧侶に入れ込むなといさめます。
これに孝謙上皇は大激怒し、詔を出して平城宮を離れ淳仁天皇と別居を開始します。
その詔の内容が…
私は母である光明皇后から淳仁天皇を補佐するようにお願いされ今までやってきました。しかし、天皇は私の言う事を聞きません。これは私ではなく淳仁天皇の問題であることを世に知ってもらいたく別居に至りました。
このようなことになったのも、私の不徳の致すところであり、出家させてもらいます。しかし、現天皇の政務は心もとないので、国家の大事は私が取り仕切ることにし、淳仁天皇は日常業務などの小さい事を行う事にします。
藤原仲麻呂の乱
上記の内容の孝謙上皇の詔で「国家の大事は私が行う!」と言っていました。
こうなると、傀儡の淳仁天皇の下政治を動かしていた藤原仲麻呂の立場が一変します。孝謙上皇はこれでもかと反仲麻呂派の人々を集め要職に就かせ始め、仲麻呂独裁をけん制しました。
しかし、藤原仲麻呂もこれに負けじと対抗します。
衛府(防衛省)の人事権を使い、軍隊を掌握します。ここで、軍隊を操れる仲麻呂に軍配が上がります。孝謙上皇も上皇の権威を使い対抗しようとしますが、正式な統治者は天皇である淳仁天皇です。淳仁天皇派の仲麻呂の方が有利なのは当たり前のことです。
孝謙上皇が仲麻呂と淳仁天皇に勝利するには、上皇の権威だけではなく決め手となる者が必要でした。これが藤原仲麻呂の乱の勝利のポイントとなってきます。
藤原仲麻呂による孝謙上皇の排除作戦
軍の指揮権を得ていた仲麻呂は、総司令官となり孝謙上皇を下記の計画を立てました。
- 大義名分を得るために、孝謙上皇の咎を書面で告発
- 機内を自らの兵で掌握し上皇の逃げ道を塞ぎ、反乱に備える
しかし、この計画は孝謙上皇に筒抜けでした。
この計画を知った孝謙上皇は、実行に移す前に藤原仲麻呂を責めることを決定します。
こうして、孝謙天皇VS藤原仲麻呂と淳仁天皇の戦いが開始されます。
鈴印の意味
先手を打つ孝謙上皇の狙いは、仲麻呂ではなく淳仁天皇の持つ鈴印でした。
天皇が持つ鈴印は、天皇の権力そのもので、天皇御璽(てんのうぎょじ)とも言い、どんな文書であっても、鈴印の押印がなければ正式文書とは認められませんでした。孝謙上皇は鈴印を奪い、公式文章として【藤原仲麻呂は謀反者だ】と鈴印を押した文章を出そうとしたのです。
孝謙上皇親衛隊
国の軍力を掌握されてた孝謙上皇は、どのようにして淳仁天皇を攻めたのでしょうか?
実は、上皇には直属の親衛隊が居ました。
それを【授刀衛(じゅとうえい)】といいます。
孝謙上皇は、配下の兵を淳仁天皇の下へ送り出し鈴印の奪取に成功します。しかし、藤原仲麻呂の息子に再び奪われてしまいます。
そこで上皇側の配下が、援軍要請をします。
ここで援軍に派遣されたのが、【坂上苅田麻呂】で坂上田村麻呂の父がやってきます。これにより、孝謙上皇が有利となり鈴印が上皇の下へやってきました。機内を掌握してた仲麻呂が有利に見えましたが、鈴印の重要性を把握し少数精鋭で奇襲をかけた孝謙天皇作戦勝ちでした。
藤原仲麻呂掃討作戦
孝謙上皇は鈴印を使い、【この度の戦いは、藤原仲麻呂の謀反によるものなので、逃げないように関所を封鎖せよ!】と各地に文章を送ります。藤原仲麻呂の支配地である兵も渋々関所を封鎖することに…
その頃、仲麻呂は自身の支配地である近江・美濃・越前に向けて逃亡を図っているところでした。しかし、どこにも到達することもなく藤原仲麻呂は敗れてしまいます。
仲麻呂敗北劇の裏には、吉備真備(きびのまきび)が考えた巧妙な作戦がありました。
吉備真備は当時70歳前後の高齢で、長年朝廷の政治に携わってきたプロで、博識な人物でもあり兵法も心得ているベテランでした。しかし、その能力を藤原仲麻呂からは疎まれ、左遷されていた一人です。
東国脱出のルートは3か所
平城京から東国へのルートは、険しい山々が交通の障害となります。そのため、主要な通路は3ルートに限られました。それが、愛発関・不破関・鈴鹿関の3つの関所で、孝謙上皇は封鎖したのです。
そして、仲麻呂は近江・美濃・越前のいずれかに向かう事は予想されていましたので、愛発関へ向かう越前、近江・美濃の不破関ルート読み侵入を阻止しようと考えました。
不破関ルートは、近江の手前にありました。それ抜ければ近江を越えて美濃に逃げると思った吉備真備は、不破ルートを徹底的に遮断する方法を考えます。
不破へ向かうのには、瀬田川を必ず渡らなければいけませんでした。そこで、吉備真備は、仲麻呂が瀬田川を渡る前に、瀬田川に架かる橋を焼き落とします。不破へ向かう道が閉ざされた仲麻呂は強制的に、愛発関に向かう事にしました。
藤原仲麻呂の死
藤原仲麻呂の行動を読んでいた孝謙上皇は愛発関へ向かう間、何度か孝謙上皇軍と藤原仲麻呂軍が衝突します。しかし、淳仁天皇から鈴印を奪った孝謙上皇の方が圧倒的有利でした。
藤原仲麻呂は、愛発関に特攻を試みるもその後まもなく打ち取られます。
享年・59歳でした…
平城京を出てからわずか2日の出来事でした。光明皇后の後ろ盾があった頃をピークに、最後はあっけない最後でした。
こうして、藤原仲麻呂の乱は終結し、傀儡の淳仁天皇は淡路に追放され、孝謙上皇が称徳天皇として再び即位し、愛しの道鏡と共に新しい政治を敷くことになります。