パリ・コミューンとは?なぜ普仏戦争後のパリで内戦が起きたのか
1871年1月28日、フランスとドイツ軍の間で休戦協定が結ばれ、普仏戦争は終結へ向かいました。その後、フランスではアドルフ・ティエールを中心とする政府がドイツとの講和を進めていきます。
ところが、そのさなかの3月18日、パリで政府軍と市民からなる国民衛兵が衝突。政府はパリを離れてヴェルサイユへ移り、パリでは「パリ・コミューン」と呼ばれる独自の政治組織が成立しました。
外国との戦争が終わろうとしていたフランスで、なぜ今度はフランス人同士が戦うことになったのでしょうか。
その背景には、普仏戦争で武装したパリ市民と、戦後のフランスをめぐる政治的・社会的な対立がありました。
パリ・コミューンとは?
パリ・コミューンとは、1871年3月にパリで成立した、市民による自治を目指した政治組織です。「コミューン(commune)」とは、フランス語で市町村や自治体を意味します。
普仏戦争の休戦後、フランス政府がパリを離れてヴェルサイユへ移ると、パリでは国民衛兵を中心とする勢力が実権を握りました。その後、市民による選挙が行われ、3月28日にパリ・コミューンが発足します。
パリ・コミューンには共和派や社会主義者など、さまざまな政治的立場の人々が参加していました。
しかし、ヴェルサイユに移ったフランス政府はパリ・コミューンを認めませんでした。
こうして政府とパリの対立は内戦へ発展し、パリ・コミューンは約2か月後の1871年5月に政府軍によって鎮圧されます。
なぜパリでは政府への反発が強まったのか
では、なぜ普仏戦争が終わろうとしていた時期に、パリではこのような政治組織が生まれたのでしょうか。
その中心となったのが、武装した国民衛兵をどう扱うのか、ドイツとの講和を受け入れるのか、そして今後も共和政を続けるのかという問題です。
フランスは普仏戦争のセダンの戦いでナポレオン3世が捕虜となり、帝政が崩壊。
1870年9月4日に共和国が宣言され、後に第三共和政と呼ばれる時代が始まっていました。
まず大きな問題となったのが、普仏戦争を通じて武装した国民衛兵の存在でした。
パリ包囲で規模を拡大した国民衛兵
国民衛兵とは、フランス革命期に生まれた、市民を中心とする民兵組織です。革命後も形を変えながら存続し、普仏戦争が始まるとその規模が大幅に拡大します。
とくに1870年9月から始まったパリ包囲では、労働者や職人を含む多くの市民が国民衛兵として首都の防衛に加わり、約4か月にわたる包囲戦を戦いました。
1871年1月28日に休戦が成立すると正規軍の多くは武装解除されます。ところが、国民衛兵については武器を保持することが認められていました。
戦争が終わろうという時期にも、パリには武装した多数の市民が残っていたのです。さらに彼らには、苦しい包囲戦を耐え抜き、自分たちがパリを守ってきたという意識もありました。
この国民衛兵の存在が、のちに政府との対立で大きな意味を持つことになります。
講和を求める地方と共和派の多いパリ
政府とパリの考え方の違いがはっきり表れたのが、1871年2月8日に行われた国民議会選挙でした。
フランス各地では戦争の被害が広がり、とくに地方では「早く戦争を終わらせたい」という声が強まっていました。その結果、選挙では講和に前向きな保守派や王党派が国民議会の多数派を占めることになります。
一方、長い包囲戦を経験したパリでは共和派や急進派への支持が強く、ドイツとの講和にも反発が残っていました。

このように、地方とパリでは戦争の終わらせ方だけでなく、今後の政治体制に対する考え方にも大きな違いがありました。
1870年9月に第二帝政が崩壊し、フランスでは共和国が宣言されたばかりで、この時点では共和政が今後も続くと決まっていたわけではありません。
そのため、王党派が多数を占める国民議会に対して、パリの共和派は「王政が復活するのではないか」と警戒しました。さらに、国民衛兵として長い包囲戦を支えてきたことも、パリ市民の間で共和国を守ろうとする意識を強める一因となります。
パリには、フランス革命以来、市民が政治体制の変化に深く関わってきた歴史があります。
共和派の人たちの中には「共和国を自分たちが守る」という意識を持つ人々も少なくありませんでした。
加えて、パリでは包囲戦によって経済も悪化していました。多くの労働者が仕事を失ったほか、戦時中に延期されていた商業上の支払い期限をめぐる問題もあり、職人や小商工業者を含む市民の生活は不安定な状態にありました。
こうして政治面でも生活面でも政府への不満が高まる一方、武器を持つ国民衛兵は独自のまとまりを強めていきます。
やがて政府にとって、国民衛兵をどのように統制するのかが大きな問題となっていきました。
国民衛兵の武装解除をめぐって政府とパリが衝突
休戦後も武器を持ち続けた国民衛兵は、各部隊の代表者を集めて連携を強め、3月中旬には国民衛兵中央委員会をつくりました。
政府から見れば、首都に多数の武器を持つ国民衛兵がいるだけでなく、自分たちの代表組織までつくり始めたことになります。警戒しないわけがありません。
そこでティエール政府は、国民衛兵の武装解除に動きました。
政府はなぜ大砲を回収しようとしたのか
国民衛兵は、パリ市内に多数の大砲を持っていました。
その多くは市民から集めた資金も使って用意されたもので、彼らには自分たちがパリ防衛のために用意したものだという意識もありました。
一方、政府からすれば、自分たちの統制を受けない武装勢力が多数の大砲を持っている状態を放置することはできませんでした。
大砲回収の失敗から政府撤退へ
3月18日、政府軍がパリ市内に入り、国民衛兵の大砲を回収しようとしました。
政府軍はいったん大砲を確保しますが、運び出すまでに時間がかかり、その間に市民や国民衛兵が集まってきます。
すると政府軍の兵士のなかから、市民への発砲命令に従わない者が現れ、国民衛兵側に同調する動きも広がりました。
大砲の回収は失敗します。
国民衛兵を武装解除するどころか、政府軍の統制まで崩れたため、ティエールは政府と軍をパリからヴェルサイユへ撤退させました。
一方、パリでは国民衛兵中央委員会が実権を握ります。
こうして、
- パリ=国民衛兵中央委員会
- ヴェルサイユ=フランス中央政府
政府がパリを離れたことで、ここからパリ独自の政治組織がつくられていくことになります。
パリ・コミューンの成立と改革
国民衛兵中央委員会は、市政を担う代表を選ぶために選挙を実施します。その結果、選挙で選ばれた代表者によるパリ・コミューンが発足しました。

オーギュスト・ラミー
一方、ヴェルサイユに移ったフランス政府はパリ・コミューンを認めません。
こうして、フランスではヴェルサイユ政府とパリ・コミューンという二つの政治権力が並び立ちました。
パリ・コミューンは短い期間しか存続できませんでしたが、政治や教育、労働者の生活に関わるさまざまな改革が打ち出されます。
教会と国家を分ける政教分離や、教育を宗教から切り離そうとする動きのほか、パン職人の夜間労働の禁止、経営者が放棄した作業場を労働者自身で運営する構想などです。
また、包囲戦で生活が苦しくなった市民に対して、家賃などの負担を軽くする措置も取られました。
このようにパリ・コミューンでは、パリの自治だけでなく、労働者や市民の生活に関わる改革も進められていました。
ヴェルサイユ政府との内戦と「血の週間」
パリ・コミューンが成立すると、政府とパリの対立は本格的な内戦へと発展します。
4月に入ると、パリ周辺で両軍の戦闘が始まりました。
軍を立て直すヴェルサイユ政府
当初、ヴェルサイユ政府が動かせる軍隊は十分ではありませんでした。普仏戦争で多くのフランス兵がドイツ軍の捕虜となっていたためです。
その後、捕虜となっていた兵士が帰還すると、政府は軍を立て直してパリへの攻撃を強めていきます。
普仏戦争ではドイツ軍に包囲されたパリが、今度はフランス政府軍と戦うことになったのです。
戦闘が続くにつれて対立はさらに激しくなり、政府軍は捕らえたコミューン側の兵士を処刑するようになります。一方、コミューン側も政府関係者などを人質として拘束しました。
政治的な妥協が成立しないまま、戦闘は5月まで続きます。
「血の週間」でパリ・コミューンが崩壊
1871年5月21日、ヴェルサイユ政府軍がパリ市内へ進入しました。
ここから5月28日までの約1週間は、のちに「血の週間」と呼ばれています。
パリ市内には各地にバリケードが築かれ、激しい市街戦が続きました。
戦闘のなかではテュイルリー宮殿やパリ市庁舎など多くの建物が炎上し、コミューン側によって拘束されていたパリ大司教などの人質も殺害されました。一方の政府軍もコミューン側の兵士や関係者を多数処刑しています。
こうした動きの中で5月28日、最後の抵抗が鎮圧され、パリ・コミューンは崩壊しました。
「血の週間」では数千人規模の死者が出たとみられ、その後も多くの人々が逮捕されました。なかにはニューカレドニアなどへ流刑となった人々もいます。
コミューンの鎮圧とその後の厳しい処罰によって、フランスの労働運動や社会主義運動も大きな打撃を受けました。
パリ・コミューンとは何だったのか
政府軍に鎮圧されたパリ・コミューンは、その後の社会主義運動に大きな影響を与えました。
カール・マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを評価し、やがて「民衆が下から社会主義をめざした最初の試み」として重視されるようになります。
ですが、実際のコミューンには共和政を守ろうとする人、パリの自治を重視する人、労働者の権利を求める人など、さまざまな立場の人々が参加していました。社会主義者だけでなく、それぞれ異なる目的を持つ人々が加わっていたのです。
そのため、現在、パリ・コミューンは社会主義革命という面だけで捉えることはできないと考えられています。
第二帝政期から続いていた労働者や貧しい市民の不満に加えて、普仏戦争の敗北、ドイツとの講和への反発、パリ包囲による生活の苦しさ、王政復古への警戒など、さまざまな問題が重なって生まれた運動として捉えられています。
パリ・コミューン後、第三共和政は定着へ
パリ・コミューンが鎮圧されたあとも、共和政がこのまま続くのかはまだ確定していませんでした。
国民議会では王党派が多数を占めていましたが、王党派・ボナパルト派・共和派の対立が続きます。
その後、共和派が次第に勢力を取り戻し、1875年には政治制度を定める3つの基本法が成立。これによって第三共和政の体制が固まりました。
普仏戦争の敗北から続いた政治的な混乱も、しだいに収まっていくことになります。


