【図解】普墺戦争はなぜ起きた?ドイツ統一をめぐるプロイセンとオーストリアの対立
神聖ローマ帝国以来、ドイツ地方には多くの領邦や都市が存在していました。神聖ローマ帝国は1806年に消滅しますが、その後もドイツ地方がすぐに一つの国家になったわけではありません。
ナポレオン戦争後、ドイツ地方にはドイツ連邦が作られていましたが、その中ではオーストリアとプロイセンという二つの大国が大きな影響力を持っていました。
やがて、この二つの国は、ドイツ統一の主導権をめぐって対立するようになります。
その対立が戦争に発展したのが、1866年の普墺戦争です。
普墺戦争は、ドイツ統一の方向を大きく変えただけでなく、イタリア統一にも関係しました。
今回は、普墺戦争がなぜ起こったのかを見ていきます。

普墺戦争とは?
普墺戦争は、1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった戦争です。
「普墺戦争」の「普」はプロイセン、「墺」はオーストリアを意味します。
普墺戦争で大きな転換点となったのが、ドイツ統一の主導権がオーストリアからプロイセンへ移ったことでした。
当時のドイツは、まだ一つの国ではなく、ウィーン体制のもとで作られたドイツ連邦には、オーストリアやプロイセンを含む多くの国々が参加していました。
その中で、長く大きな影響力を持っていたのがオーストリアです。一方、19世紀に入ると、プロイセンも軍事力や経済力を強め、ドイツ地方での存在感を増していきました。
普墺戦争の結果、プロイセンが勝利し、オーストリアはドイツ統一の流れから外されます。さらに、ウィーン体制後に作られたドイツ連邦も解体され、プロイセン中心の北ドイツ連邦が成立しました。
また、この戦争はイタリア統一にも関係しています。
イタリア王国はプロイセン側についてオーストリアと戦い、戦後にヴェネツィアを獲得しました。
つまり普墺戦争は、ドイツ統一だけでなく、イタリア統一にも関係する戦争だったのです。この流れは次の普仏戦争、さらに1871年のドイツ帝国成立へとつながっていきます。
普墺戦争が起こった背景とは?
普墺戦争を理解するには、当時のドイツ地方の状況を見ておく必要があります。

ドイツ地方にはドイツ連邦というまとまりがありましたが、その中ではオーストリアとプロイセンが大きな力を持っていました。ドイツ統一を進めるにあたり、この二か国の関係が大きな問題になっていきます。
オーストリアを含めてドイツをまとめるのか。それとも、プロイセンを中心にドイツをまとめるのか。この違いが、やがて両国の対立につながっていきました。
ここからは、ドイツ連邦内の力関係、統一をめぐる考え方の違い、そしてプロイセンの台頭を見ていきます。
ドイツ連邦内の二大勢力
ドイツ連邦の中で、伝統的に大きな影響力を持っていたのはオーストリアでした。
オーストリアは神聖ローマ皇帝をほぼ世襲のような形で輩出していたハプスブルク家が支配する大国で、ドイツ連邦の政治でも中心的な立場にありました。
一方、19世紀に入ると、プロイセンが北ドイツを中心に力を伸ばしていきます。軍事力や経済力を強め、ドイツ連邦内での存在感を増していきました。
つまり、ドイツ連邦では、伝統的に有力だったオーストリアと、急速に台頭するプロイセンが並び立つようになっていたのです。
この力関係が、ドイツ統一をめぐる対立の土台となりました。
ドイツ統一にオーストリアを含めるか否か
ドイツ統一を考えるとき、大きな問題になったのが、オーストリアをどう扱うかでした。
オーストリアは、ドイツ連邦の中で大きな影響力を持っていました。そのため、オーストリアを含めてドイツをまとめようとする考え方もあったのですが…
オーストリアはドイツ系の人々だけで作られた国ではなかったことが統一を進めるうえで問題となってきます。
ハンガリー人、チェコ人、イタリア人、スラヴ系の人々など、さまざまな民族を含む大きな帝国だったため、オーストリアをそのままドイツ統一に加えようとすると、ドイツ人以外の地域まで新しい「ドイツ」に含めることになってしまうのです。
そのため、オーストリアを除いてプロイセンを中心にドイツをまとめようとする考え方も出てきました。
この方法なら、オーストリア帝国が抱えていた多民族問題を避けながら、ドイツ系の地域を中心に統一を進められます。
ただし、これはドイツ連邦の中心的存在であるオーストリアを新たな「統一ドイツ」の中心から外す考え方でもありました。

ドイツ統一を進めようとすると、オーストリアを含めるのか、それともプロイセン中心でまとめるのかという問題が避けられなかったのです。
オーストリアを含めてドイツを統一しようとする考え方を「大ドイツ的統一」や「大ドイツ主義」、オーストリアを除いてプロイセン中心にしようとする考え方を「小ドイツ的統一」や「小ドイツ主義」と呼びます。
ドイツ関税同盟とプロイセンの台頭
政治面では、オーストリアがドイツ連邦内で伝統的に大きな影響力を持っていましたが、経済面では、しだいにプロイセンの存在感が強まっていきました。
そのきっかけの一つが、1834年に成立したドイツ関税同盟です。
ドイツ関税同盟は、ドイツ諸邦の間にあった関税の壁を取り払い、統一された国内市場を作る土台となりました。
関税とは、国境を越えて商品が移動するときにかけられる税のことです。関税の壁が多いと、商品を運ぶたびに税がかかり、経済活動がしにくくなります。
このドイツ関税同盟を主導したのが、プロイセンだったうえに、オーストリアはこの関税同盟に参加していませんでした。
そのため、ドイツ諸邦の経済的な結びつきは、プロイセンを中心に強まっていくことになります。
この時点でプロイセンがドイツ全体の主導権を握ったわけではなく、政治面ではオーストリアの影響力も大きく残っていました。それでも、経済面では、プロイセンを中心とするまとまりが作られつつあったのです。
1848年革命とフランクフルト国民議会
1834年にドイツ関税同盟が成立したころ、ドイツ地方では人口増加や貧困の問題も広がっていました。産業や雇用の仕組みが十分に整っていない中で人口が増えたため、生活に苦しむ人々も多くなっていきます。
こうした社会不安も背景となり、1848年にはヨーロッパ各地で革命が起こりました。
ドイツ地方でも、政治的自由を求める動きやドイツ統一を求める声が高まるという流れの中で開かれたのが、フランクフルト国民議会でした。
なお、先ほど出てきたドイツ関税同盟はフランクフルト国民議会に置き換えられたわけではありません。
関税同盟が経済的な連合だったのに対し、国民議会は統一国家と憲法の制定を目指した政治的な議会であり、両者は役割の異なる枠組みでした。
フランクフルト国民議会では、ドイツをどのような形で統一するのかが議論されますが、ここでもオーストリアを含めるのか否かが問題となりましたが、最終的に、フランクフルト国民議会は、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝の帝冠を差し出そうとします。
これは、ドイツ統一を求める人々の中で、プロイセン中心の統一に期待する動きがあったことを示しています。
ドイツ関税同盟によって、プロイセンを中心とする経済的なまとまりが作られつつあったことも、プロイセン中心の統一が現実的に考えられる背景の一つになりました。
ところが、プロイセン王はこの帝冠を拒否しました。
革命によって生まれた議会から与えられる帝冠を受け入れることを嫌ったためです。以上のような経緯からフランクフルト国民議会によるドイツ統一は実現しませんでした。
それでも、プロイセンがドイツ統一への関心を失ったわけではありません。
プロイセンは、オーストリアを除いた形でドイツ諸邦をまとめようとする動きを見せますが、この動きはオーストリアの反発を招きます。さらに、ロシアもオーストリア側に立ったため、プロイセンは国際的にも不利な立場に置かれました。
その結果、1850年に結ばれたオルミュッツ協定で、プロイセンは小ドイツ的統一をいったん断念することになります。この出来事はプロイセンにとって大きな挫折でした。
この挫折を経て、プロイセンでは、ドイツ統一を進めるには外交だけでなく軍事力も重要だという考え方が強まっていきます。のちにビスマルクが「鉄血政策」を掲げる背景には、こうした流れもあったと考えると分かりやすいかもしれません。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題とデンマーク戦争
プロイセンとオーストリアの対立が表面化するきっかけになったのが、デンマーク戦争の原因となったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題です。
シュレースヴィヒとホルシュタインは、どちらもデンマーク王の支配下にあった地域でしたが、立場には大きな違いがありました。
ホルシュタインはドイツ連邦に属していた一方で、シュレースヴィヒはドイツ連邦には含まれていません。
とはいえ、シュレースヴィヒにもドイツ系住民がいて、ホルシュタインと一体の地域として扱うべきだという考え方もありました。

そうした中で、デンマーク王がシュレースヴィヒをデンマーク本国へより強く結びつけようといました。これに対し、ドイツ側からの反発が強まります。
ドイツ連邦からシュレースヴィヒに対しては直接かかわるのは難しいように思えますが…
- ホルシュタインがドイツ連邦に属していたこと
- シュレースヴィヒとホルシュタインを一体の地域として扱うべきだという考え方があったこと
から、ドイツ側から見れば無視しにくい問題となりました。
こうして、シュレースヴィヒとホルシュタインをめぐる問題は、デンマークとドイツ側の対立へ発展していきます。
デンマーク戦争から普墺戦争へ
1864年、プロイセンとオーストリアが共闘してデンマークと戦ったデンマーク戦争が始まりました。デンマークに勝利した両国は、シュレースヴィヒとホルシュタインを獲得します。
しかし、問題は戦後です。獲得した二つの地域の管理をめぐって、プロイセンとオーストリアの対立が深まっていきます。
1865年のガスタイン協定では、シュレースヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアが管理することが決まり、一見すると、これで問題が解決したようにも見えましたが、実際には両国の対立はおさまりません。
背景には「統一ドイツをどのような形で作るのか」という、かねてからの対立もありました。
シュレースヴィヒとホルシュタインの管理問題は単なる土地の取り合いだけにとどまらず、ドイツ統一の主導権をオーストリアとプロイセン、どちらが握るのかという問題と結びついたのです。

そして、この対立こそが1866年の普墺戦争へつながっていったのです。


