弥生時代

稲作の伝来と弥生文化の誕生<紀元前10世紀~紀元後3世紀頃>

歴ブロ
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日本列島で縄文文化が発展していた頃。中国大陸では紀元前6500年~5500年頃にかけて黄河中流域でアワやキビなどの農耕文化が興り、長江流域では稲作も始まりました。

さらに、鉄器の使用が盛んになり、春秋戦国時代には農業も著しく進み、紀元前3世紀には前漢という強力な国家が成立しました。こうした強力な文明に影響されるように、朝鮮半島や日本列島にその文化が波及していくことになります。

縄文時代も終わりころの紀元前5世紀ころには、九州北部で水田による稲作が開始されました。試行錯誤の結果、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が広がり東日本にも広がりました。

北海道と南西諸島を除く日本列島は食料採取の時代から食料生産の時代へと移り変わります。

この紀元前4世紀~3世紀頃の時期は弥生時代と呼ばれています。

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米だけではない弥生時代の食糧事情

「弥生時代に稲作文化が広がり、人々はコメを食べていた」と学校で習ったのは私だけではないはずです。

縄文時代には採取や狩猟で食料を調達していたため、食料が取れなくなった際に飢えで苦しむ心配がつきものだったのが「弥生時代に入って保存のきくお米が作られることによって飢えの心配がなくなる変化が起こった」「弥生人は、米を食って生活をしていた」というイメージを持ちがちです。

しかし、近年では、貯蔵穴の遺跡に残る木の実の残骸や稲穂の遺物を研究したら「稲作と言われるほど米の収穫量が多くなかったのでは?」と考えられるようにもなってきています。

この時期の日本では食べものに困ることはあまりなく、食料貯蔵庫や貝塚をみると無理して米を食べる必要性が無かったと言われています。

たしかに米は美味く貯蔵が利くので便利ですが、わざわざ手間をかけて作る必要性が無かったのかもしれない、ということですね。

これが正しければ、稲作が伝来後にすぐお米が主食になったのではなく、数世紀という長い時間をかけて人々に食されるようになったのだと思われます。

稲作を伝えただけではない渡来人

稲作伝来ルートは諸説あるようですが、朝鮮半島~九州ルートが最も有力な説とされています。では、渡来人はなぜ日本に来たのでしょうか?

大陸では頻繁に争いが起きており、戦乱から逃れようと朝鮮半島に逃げ、さらに南下を続けて日本列島にやって来たとされています。

当然、元々日本列島に住んでいた人々もいた訳ですが、不思議なことに渡来人と在地の人々が全面戦争したと断定できる形跡は見つかっていません。当時の日本にいた人たちの多くは、大陸からやって来た渡来人たちを受け入れたと考えられています。

れきぴよ
れきぴよ

ただし、稲作が広がりクニ同士の対立が深まっていく弥生中期以降には、水や土地をめぐる争いも増え、環濠集落や武器・戦傷痕のある人骨などから、集落間の戦いが激しかったことも分かっています(後述)。

稲作を伝えてくれたからなのか、受け入れてくれたから稲作を教えてくれたのかは分かりませんが、弥生時代の人々にとってはこの稲作文化はとても魅力的な物だったのでしょう。

稲作のほかに渡来人は青銅を伝えました。青銅は稲作と同じように日本列島に大きな影響を与えることになります。

  1. 銅矛・銅剣・銅戈・銅鐸・鏡などの武器型・祭器型青銅器となり、首長の権威を示す道具になった
  2. 貴重品として用いられ、身分格差が拡大した

後に日本が中央集権国家の成立に奔走するきっかけとして、身分格差の拡大は大きなターニングポイントとなりました。現代では、ネガティブな言葉である身分格差ですが、この時代では大きな歴史的な一歩なのです。

さらに木製の農具が次第に鉄製に変わり主流になっていくにつれ、森林の伐採や田畑の整備の大きな力となっていったのです。

弥生文化の特徴

弥生文化は、水稲耕作を基本とし(後期にはより生産高が期待できる乾田も開発された)、鉄・銅や青銅を用いた金属器や石斧、稲の摘む道具の石包丁などの朝鮮半島から伝わった磨製石器機織り技術などが使用されていました。

また、煮炊き用の土器にはカメ・ツボ・ハチや高坏など赤焼きの土器に変わり、のちに弥生土器と呼ばれるようになります。

水稲耕作や金属器生産などの新しい技術は大陸から伝わってきた一方で、それまでの土器つくりや打製石器、竪穴住居などの技術は縄文文化の継承をしていました。

稲作による食料の生産が始まった弥生時代は、人々の生活にも大きな変化が起こり始めます。

この時代の水田は現在の物より小規模でしたが、灌漑・排水用の水路は本格的なものが備わっていました。また、田植えもすでに始まっており、農具も木製ではありますがスキやクワが用いられ、収穫には石包丁による刈り入れが行われています。

収穫したものは高床倉庫や貯蔵穴に納められ備蓄されました。

弥生文化が一定規模広まった頃、木製の農具からしだいに斧や刀子などの鉄製工具が使用されるようになり石器が姿を消し、鉄器が主流となって行きます。

狩猟と漁業は引き続き行われ、さらに豚の飼育もおこなわれたそうです。

住環境は竪穴住居が一般的で、集落も徐々に大きくなり、周りには深い堀や土塁を巡らせた環濠集落も作られはじめます。

死者の埋葬は、縄文期の屈葬から集落近くの共同墓地に土壙墓・木棺墓・箱式石棺墓による伸展葬に変わっていきました。

※伸展葬・・・体全体を伸ばした状態で埋葬する事。

また、盛り土をもった墓が広範囲に出現し始めるのもこの時代の特徴で、方形の低い墳丘の周りに溝を張り巡らせた方形周溝墓が各地にみられ、弥生期後半にはかなりの大規模な墳丘を持つ墓が誕生します。

その中には、三十数面もの鏡や青銅製の武器なども埋葬されてた大型の墓もありました。これは集団の中に身分の差が表れ始めた証拠で、各地に強力な支配者が出現したことを意味します。

クニの始まり

弥生時代には環濠集落が表れ、石器や鉄製の武器が出現したのは上記の通りです。

この変化により全国の集落で農耕社会が成立するとともに、備蓄された余剰食糧をめぐり争いが始まって武器や防御的な施設が発達していきました。

争いごとがあまり無かった日本列島でもこうして人々が争うようになり、強力な集落はいくつか統合をして【クニ】と呼ばれる政治的な集団ができていきます。弥生期の大きな墳丘を持つ墓の多くはこうしたクニを治めた小国の統治者と考えられています。

このようなクニの分立は、当時の中国の書物にも書かれていました。

前漢の歴史が書かれた【漢書】によると、【倭人】 のクニは百余国あり朝鮮半島に度々使者を送っていたそうです。また、紀元57年には倭の奴国の王後漢皇帝・光武帝から印綬を受けたとされています。この金印が福岡市の志賀島から発見されています。

このように様々な小国たちは、日本国内での立場を高めようと、中国や朝鮮半島に使者を送り、大陸の先進的な文化を取り入れようとしていました。

時がたつにつれてこれらの集落はドンドンと肥大化し、集落をまとめるリーダー的な人物が必要になり、そこで青銅が使われました。

当時のリーダーの条件は、豊穣祈願などの祭りをどう行うかで決められていました。「政」を【まつりごと】と呼ぶのはこの祭りから来たと言われています。当時の人たちにとって豊穣祈願のお祭りは、政治の一環として人々の心をつかむことが必要とされたものだったためです。

青銅はその祭りで祭器として多く使用されることになります。貴重な青銅器を使用することによって祭りのシャーマニズム的な印象を強めることができたのだと思います。

弥生時代のポイント!
  • 農耕(水稲耕作)メイン + 狩猟採集
  • 収穫物は高床倉庫や貯蔵穴へ(←収穫量によって貧富の差が出来始めた)
  • より薄手で丈夫な赤焼きの弥生土器の登場
  • 堀や土塁をめぐらした環濠集落の登場(←激しい戦いが行われた根拠)
  • 後期には鉄器が普及
  • 末期には強力な支配者が出現
  • 大規模な墓が各地に見られるようになり、クニが誕生した

集落同士の争い

弥生時代の人々は仲良く稲作をしているイメージですが、実は戦国時代に負けないくらいの過酷な争いが繰り広げられていました。その頃になると、集落の周りを濠で囲んである環濠集落が目立ちました。

集落を濠で囲ったという事実は集落単位で強い縄張り意識が現れていたということであり、よそ者が自分の集落へ接近した時には争いなどが起きていたことを意味します。

争いの原因は、主に水源の確保や土地問題でした。時代が進むにつれてまるで戦国時代のように土地の奪い合いなどの争いが起こりました。

この争いに勝利した集落は、さらに巨大化し支配権を広めていきます。

勝者は稲作に適した土地と人材を確保できさらに大きくなっていきました。この激動の弥生時代後期になると、人々も高地性集落と言われる高台や山に集落を作るようになります。

戦国時代でいう山城と同じ原理で、他の集落からの襲撃を押さえるために防御性の高い集落を形成していきました。

この弥生時代後半までに栄えた集落の一つに佐賀県の吉野ケ里遺跡があります。

こうして、集落同士の争いにより強い集落が巨大化しムラからクニへと変化していきます。

大陸からの輸入物の掌握

巨大化してクニ化した集落は、次第に大陸との結びつきを強めようとします。

そうすることで、大陸からの最新技術を独占することができ、他の集落を出し抜くことができるからです。実際に、大陸から近い福岡県や佐賀県北部の集落は大陸との通商を独占していたとされ、いくつかの大きなクニが存在していました。

大陸に存在していたにとっては貢物が増えることは喜ばしい一方で、日本にとっては最新の技術を教えてもらえて互いの利害が一致していたのです。

いわゆる朝貢ですね。

なお、朝貢とは【定期的に漢へ出向き、お土産を持ってきなさい。私と関係を持っていることを感謝しなさい】ということです。

200年頃になると、大陸は魏・蜀・呉の三国時代に入り、日本のクニの一部は魏との朝貢関係を結び、後の卑弥呼が魏より金印を送られることになります。

邪馬台国

220年に中国大陸では後漢が滅び、魏・蜀・呉の三国時代を迎えた頃の書物【魏志】の中の倭人伝によると、倭国では2世紀の終わりに大きな争いがなかなか収まらなかったそうです。

その時、邪馬台国の女王・卑弥呼を立てたところ戦乱が収まり、邪馬台国を中心に30か国くらいの小国の連合体が生まれたとされています。

卑弥呼は、239年に中国の魏に使者を送り、【親魏倭王】の称号と多くの銅鏡を贈られました。なお、卑弥呼は、巫女として呪術的な能力を背景に政治を行っています。

邪馬台国では、すでに大人下戸といった身分があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整って市なども発展していました。

卑弥呼亡き後は男の王がクニを治めましたがうまくいかず、卑弥呼の同族の娘・壱与が王となり治められました。

一方の中国大陸では、266年に魏に代わり【】が成立しており、壱与が晋に使者を送ったのを最後に、以降約150年間は日本に関する記述が中国の書物から姿を消すことになります。

この時代を「空白の4世紀」と呼んでいますが、この時期には様々な説が取り上げられています。

 

現在では、この邪馬台国がどこにあったかが議論されており、たくさんの説が飛び交っています。一応、こちらでも触れていますので、参考にしてみてください。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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