中国共産党とは?成立・国共関係・抗日統一戦線までを流れで解説

歴ブロ

今回のテーマ「中国共産党」は中華人民共和国(1949年成立)のイメージが強いかもしれませんが、中国共産党はあくまで政党であり、中華人民共和国とは別物です。

中共は1921年に成立し、国民党と協力した時期国共合作もあれば、激しく対立した時期もありました。のちの国共内戦や1949年の中華人民共和国成立につながる前段として、この「合作と分裂」の出発点は重要です。本記事では、成立の背景から国共合作、1927年の分裂までを中心に整理します。

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中国共産党とは?何を目指した政党なのか

中国共産党(中共)は、マルクス主義(共産主義)にもとづき、コミンテルンの支援・指導のもとで1921年に結成された政党です。旧来の支配構造を変えるため革命による社会変革を目標に掲げました。

※コミンテルン…国際共産主義組織(第三インターナショナル)

当初は知識人や都市部の活動家を中心に活動が始まりますが、徐々に労働者・農民にも基盤を広げて組織を拡大。中国の統一や反帝国主義(列強の支配への反発)とも結びつきながら影響力を広げていきました。

中国共産党の結成(1921年)

中国共産党は、一般に、1921年7月に上海のフランス租界で開かれた中国共産党第一次全国代表大会(第1回党大会)をもって、党の成立と位置づけられます。

れきぶろ
れきぶろ

なお、第1回党大会に出席した代表者数はわずか13人。
中国共産党はごく小規模な組織から発足しました。

当時の中国では、五・四運動(1919年)以後、知識人の間で社会改革の議論が活発化し、ロシア革命の影響も受けて共産主義思想への関心が広がっていました。こうした流れのなかで、各地に共産主義グループが生まれ、それらがまとまる形で中共が結成されます。

中心人物:陳独秀・李大釗

陳独秀
出典:Wikimedia Commons
(パブリックドメイン)

中国共産党の成立期に中心人物として押さえたいのが、陳独秀(ちんどくしゅう)李大釗(りたいしょう)です。どちらも知識人として社会改革を模索し、五・四運動の時代の思想的な高まりの中で、共産主義思想の受容や普及に関わりました。

陳独秀は、新文化運動の流れの中で大きな影響力を持ち、中共成立期の指導的立場に立った人物として位置づけられます。党の組織づくりを進めるうえでも重要な役割を果たしました。

一方、李大釗は、ロシア革命の影響を早くから中国に紹介した人物の一人とされ、共産主義思想の広がりに大きく関わったとされます。中共成立の背景を理解するうえで欠かせない存在です。

Q
毛沢東の位置づけ

中国共産党というと毛沢東の印象が強いかもしれません。

しかし、1921年の成立期から毛沢東が党の最高指導者だったわけではありません。毛沢東は第1回党大会に出席した創立メンバーの一人で初期の指導者層の一角に位置していましたが、当時の中心的立場にあったのは陳独秀や李大釗でした。

とはいえ毛沢東は早い段階から活動に関わり、のちに党内で主導権を握っていきます。中共が成長する過程で、運動の重心が都市から農村へと広がっていく中で、毛沢東は次第に存在感を増していきました。

なぜこの時期に共産党が生まれたのか

中国共産党が1921年に成立した背景には、国内だけでなく国際情勢も含めた複数の要因があります。ここでは重要な3点に絞って整理します。

第一次世界大戦後の国際秩序(民族自決の期待と現実)

第一次世界大戦後、ウィルソンの提唱した「民族自決」は多くの地域に期待を生みました。しかし現実には、列強が中国の利権を手放すわけではなく、中国側には「国際秩序の中で自国の権益が守られない」という不満が蓄積していきます。

こうした失望感は、反帝国主義(列強支配への反発)や民族意識の高まりにつながりました。

五・四運動(1919)による民族意識と知識人の政治化

1919年の五・四運動は対外的な屈辱への反発を背景に広がった運動で、学生や知識人が政治運動に関わるきっかけになりました。

れきぶろ
れきぶろ

五・四運動は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で中国の要求が認められなかったことをきっかけに広がりました。

背景には1915年の対華二十一か条の要求など、日本や列強による中国への圧力への反発もありました。

社会改革を求める議論が活発化し、新文化運動の流れとも結びつきながら、従来の価値観や政治のあり方を問い直す空気が強まります。中共成立に向かう「思想的な土台」として重要です。

ロシア革命(1917)の影響とコミンテルンの存在

1917年のロシア革命は「革命によって社会を変えうる」という具体例として、中国の知識人や活動家に強い影響を与えました。

さらに1919年にはコミンテルン(第三インターナショナル/共産主義インターナショナル)が成立し、国際的に共産主義運動を広げる動きが進みます。中国共産党も、こうした国際的な潮流と接続しながら結成された点が重要です。

国民党との関係/第一次国共合作にどうつながるか

こうした背景のもとで成立した中共ですが、当初は小規模で、全国的に政治を動かす力は限られていました。

加えて当時の中国は、軍閥が割拠して統一が進まず、政治的にも不安定な状態が続いています。そのため中共にとっては、思想や運動を広げるだけでなく、「中国をどう統一し、列強の影響をどうはね返すのか」という現実的な課題に向き合う必要がありました。

軍閥時代
出典:Wikipedia「軍閥時代」(CC BY-SA 3.0)を翻訳のうえ参照

そこで浮上したのが国民党との協力です。国民党もまた中国の統一を目指しており、軍閥打倒や国家統一という点では利害が一致する部分がありました。さらにコミンテルンは、中国革命を進めるうえで幅広い勢力の結集が必要だと考え、国民党との協力を促します。

このようにして中共は国民党と協力する道を選び、第一次国共合作(1924〜1927年)へとつながっていきます。

国共合作は「同じ思想を共有していたから」ではなく、当時の中国の状況の中で統一と反帝国主義を進めるための現実的な枠組みとして形成された面が大きい、と押さえておくと理解しやすいでしょう。

分裂から内戦へ

第一次国共合作によって国民党と共産党は一時的に協力しましたが、両者の間にはもともと思想や目標の違いがありました。1927年、国民党内部で主導権を握った蒋介石は共産党への弾圧を開始します。

とくに同年4月の上海クーデター(四・一二事件)は、その象徴的な出来事です。これによって第一次国共合作は崩れ、両者の対立は決定的となりました。

蒋介石
蒋介石
(黄埔軍官学校校長時代)
出典:WikimediaCommons
(パブリックドメイン)

この結果、国民党と共産党は長期にわたる内戦状態へと入っていきました。これが一般に国共内戦と呼ばれる対立の出発点です。

もっとも、この対立は単純にそのまま続いたわけではありません。のちに日本の侵略が拡大すると、両者は再び抗日を優先して協力する局面を迎えます。しかし戦後には内戦が再燃し、最終的に1949年中華人民共和国成立へとつながっていきました。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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