簡単に分かる?ゆる~く縄文時代の流れを見てみよう
イラストで日本史の流れをわかりやすく学んでいこう!
第一弾は、旧石器時代~縄文時代への移り変わりを見ていきましたが、第二弾として縄文時代について書いて行きたいと思います。
旧石器時代から縄文時代へ
旧石器時代と縄文時代の違いといえば 土器 が使われた点が挙げられます。
旧石器時代の中頃までは食糧を狩ることが主流です。採集や調理のための道具を作るよりも多くの罠を仕掛ける方が生きるために必要な行動だったと思われます。
それが植生の変化等で人の食べる食料が変わって、それまでの常識が通用しなくなったのが旧石器時代の末期。土器の普及に繋がる状況が確実に出来上がっていきました。
土器の誕生
土器普及に繋がりそうな環境が旧石器時代末に整えられている最中、
偶然焚火の周りの土が固まっている様子を発見して
上と似たような会話が繰り広げられ、土器の使用が広まった…のかもしれません。実際に土器は偶然土が固まっている様子を見て発明されたって説があります。
- 土器を作ることが狩りをするための罠を仕掛けるのと同じくらい生き残れる
- あるいは土器作りを優先した方が生き残る可能性が増える
環境に変われば、土器を作り使用するのが一般的になっていきます。
こうして土器が作られ使用されるようになり 縄文時代 と呼ばれる時代に突入したのです。
縄文時代はかなり温暖だった!?
太陽活動、海流…地球の気候は様々な要因が重なって決まります。
縄文時代の始まる約1万5千年前には、太陽からの※日射量が増えたことでかなり温暖な気候になりました。
地球の公転軌道(他の星の引力からの影響により楕円軌道を描く)・自転軸の角度・自転軸の歳差運動(コマの首振り様の動きを長い周期でしているそう)の3要因により日射量が変化するという理論。そもそも地球はなぜ傾いているかを知りたい場合は https://kagaku.info/old/faq/axis000515/index.htm このサイトが一番分かりやすく書かれていました。
縄文時代は土器の形状により時期が分類される
針葉樹林から広葉落葉樹林へ変化したのは旧石器時代にもありましたが、食べるのに最適な植物がいよいよ広範囲に広がり土器が普及していきます。
縄文時代の始まり【草創期】です。
土器は作り始めたばかりなので、まだ洗練されておらず
こんな感じで周囲に石を置いて安定させる形状の土器でした。縦長の器になった理由は焚火で横からも熱を得る効率的な形状を求めた結果だと考えられます。
環境の変化で新しい道具が次々と生まれ、消えていったと言われています。住居も定住傾向にあるものの、本格的な定住生活とまではいかず、まだまだ流動的な段階です。
やがて縄文時代で最も温暖な時期に突入。1万年~7千年前の【縄文時代早期】に当たります。
温暖な時期に突入したことで採集が行いやすくなり、本格的な定住生活に移行します。定住生活に入ったことで家財道具が充実。土器の文様もハッキリしていきます。
もちろん見た目だけでなく機能性も追及します。
土に挿して安定させる先の尖った形状の土器が相次いで発掘されるようになりました。
↑ では土器に焦点を当てましたが、生活形態が変わったことで他にも様々な事が変化していきます。
竪穴式住居が増え、それと共に周囲の森が切り開かれます。周辺地域の開拓により栗やドングリなどが育ちやすい二次林の環境が整うことに。
※栗は耐久性・耐水性にも優れ、防虫も出来た良質な木材です。当時の柱にも使われていたそうです。
人が手を入れたことで日当たりが良くなり繁茂した山菜や、それまで人が入り込めない場所に群生していたような山菜も手に入れられるようになります。
山菜やドングリはアク抜きが必要な食料です。山菜やドングリが身近になり、アク抜きの技術や保存方法が発展していきました。
保存方法が確立されると人口も増えていき、様々な地方でそれぞれの文化が芽生え始めます。土器の地域差がいよいよ本格的になり形状も様々なものへと変化。煮炊き用の土器だけではなく浅鉢型の器として使用された土器も使われ始めました。
このドングリの貯蔵技術が発展し人口増加に伴って地域ごとに文化の差が出てきたのが7千~5500年前の【縄文前期】と呼ばれる時期になります。長い縄文時代の中でも最も温暖で海水面が最も高かったと言われています。
前期の頃より寒くなったものの、既に人口増加のスパイラルに入っていたので時間の経過とともに更に人は増え続けました。所謂5500~4500年前の【縄文中期】には人口が最大で27万人と狩猟採集社会としては非常に多かったそうです。
人が前期よりも増えたことで更に土器は洗練されていきます。派手だと思う文様の土器は大抵この時期に作られたものです。用途別の土器もますます増えました。なお、この頃の人口密度は 東日本 > 西日本 です。豊かな森と豊富な水産資源などがありこのような人口構成となっています。
4500~3200年前【縄文後期】と呼ばれる時期に入ると、気候が段々と涼しくなり植生も変化。人口も減少し、東日本から温暖な西日本へと人が移動(したと言われている)。
土器も中期のような派手さがなくなり若干薄くなります。実用性重視の形状へと変化します。
そして、いよいよ弥生時代に突入する直前の3200年~2800年前【縄文晩期】に突入。
縄文後期の流れと同様、非常にシンプルで使い勝手の良い小型の土器が作られるようになります。が後期よりも緻密で工芸的なものが増えています。
上の土器とは種類が違いますが、縄文晩期の土器としては亀ヶ岡式土器が有名です。
後期以上に寒くなった事で人口が激減し、大陸から人が流入してきたようです。
縄文晩期に当たる時期、海外に目を向けると…
地球規模で寒冷化が進み、ユーラシア大陸でも寒冷化・旱魃の影響が出てきました。殷が終わり周が興ったのが紀元前1046年。ちょうど縄文晩期と一致します。
当時は殷が現在の中国と言われているような広い領土を支配していたわけではなく、様々な民族が混在しているような時代です。殷周革命が直接的に日本列島への人々の移動に繋がったとは言い切れません。
ですが、殷周革命で周が殷に変わって国を治めるに至るまで殷と友好関係を保っていた南方の諸族との関係が悪化、何度も叛乱を起こし討伐しに行くという状況だったこと、殷より北方の民族も南下していたことが分かっています。
とにかく日本が縄文時代の晩期の真っただ中。つまりは 殷周革命が発生する前後の時期 にユーラシア大陸は 戦乱続きだった ことは確実だったと言えそうです。
弥生時代へ
戦乱の中、逃げ出した人たちが玉突き状に移動し、日本列島にも多くの渡来人がやってきたと言われています。
この渡来人の移動によりもたらされた稲作などの様々な技術・考え方を手に入れたことで縄文時代は次の弥生時代へと歩みを進めていくことになったのです。
なお、縄文時代で暗記しなきゃダメな言葉1、2番を争う縦穴式住居ですが、現代でも宿泊できる施設があります。栃木県の佐野市にあるそうなので気になる方・ご近所の方は泊まってみるのも面白いかも知れません。