禁門の変と第一次長州征伐
長州藩と言うと尊攘や討幕のイメージが強いですが、当初は【朝廷に忠節・幕府に信義、先祖に孝道】の三大キャッチフレーズを掲げて、過激な対立構造とは一線を画していました。
1861年に藩の目付・長井雅楽が【航海遠略策】と言われる政治・外交思想を進言します。朝廷と幕府が開国策で協調して、軍備を強化したのちに海外に進出すべきであると説き、藩論が一時期公武合体策に傾きます。
しかし、高杉晋作等の松下村塾の出身者がこれに異を唱え、桂小五郎ともに【破約攘夷】すなわち通商条約を破棄して外国人を討伐しようと言う考えに統一させます。
藩内の反論が攘夷の台頭による分裂を恐れた長州藩は、長井を切腹させて藩として武力行使を伴う尊攘運動を推進していきます。
ところが1863年の八月十八日の政変により、長州藩は藩論を180度変えなければいけなくなり、京都では尊攘派と公武合体派の力関係が逆転します。長州藩追放により京都から一緒に追放されていた桂小五郎は、京都に戻りと藩の名誉回復に奔走しますが、残念ながら朝廷への進言は受け入れられませんでいた。
禁門の変
1864年には、京都の旅館・池田屋に会合を開いていた長州藩を中心とする尊攘派志士たちが、新撰組に襲撃され多数が死傷する池田屋事件が起きます。その後、巻き返しを図るべく同年7月に、久坂玄瑞が兵を伴い上洛しますが、薩摩・会津・桑名などの諸藩連合軍と衝突します。
この戦いを禁門の変と呼ばれています。
この争いを機に幕府は、勅命による長州藩征伐の大義名分を得ることとなりました。
さらに長州藩は、外国勢の攻撃を受けることになります。1864年8月に外国人砲撃事件の報復のために英・仏・米・蘭の連合艦隊が下関の砲台を砲撃し占領したのです。
これらの対応に長州藩では、尊攘派の流れをくみ幕府への武装恭順を唱える周布正之助ら率いる【正義派】と幕府への謝罪恭順を主張する【保守派】らが激しく対立していました。同年9月には、藩主立ち合いの会議で武装恭順に決定しますが、正義派の一人が保守派に襲撃されてた責任を取り、周布正之助が切腹します。
これにより保守派が藩内で実権を握ることになり、桂小五郎は但馬国へ、高杉晋作は九州へと逃れて、奇兵隊も解散させられました。
藩内で実権を握った保守派は、藩内の尊攘派を粛清して禁門の変に関わった正義派の三家老を処分し、論藩が徹底的な恭順に統一されて、軍参謀を務めた西郷隆盛の進言もあり、征長軍は交戦せずに撤退することになりました。
この西郷隆盛の処置には、のちの薩摩藩の動向に繋がる重要な意味合いを含んでいました。参謀として、軍艦奉行を務めていた勝海舟の下へ訪ねた隆盛は、勝海舟から長州征伐の非を説かれたとされています。
勝海舟は幕臣でありながら、もはや幕府の再生は不可能と考えており、薩長などの雄藩を中心にした合議政権を樹立して諸外国と対抗しようと考えていました。この考えに深い感銘を受けていた西郷は以後、長州藩存続とともに、雄藩連合政権の実現に向けて暗躍していく事になります。
長州藩毛利家の250年の恨みは深かった
全盛期には中国地方のほとんどを掌握していた毛利家は、関ヶ原の戦いで西軍についていました。毛利家家臣・吉川広家が東軍と内通していて、毛利家の所領は安泰と約束をしていました。しかし、合戦後その約束は反故にされ、周防国・長門国(長州藩)に大減封される結果になりました。
それ以来250年の間、長州藩毛利家では、新年の集まりの際に『今年の討幕の機は如何に?』と家臣たちがお伺いを立て、藩主が【時期尚早】と答えるのが慣例だったそうです。維新の原動力となった人材の多くが長州藩出身と考えると、歴史の皮肉を感じずにはいられません。