自由民権運動の激化で起きた福島事件・秩父事件など代表的な運動を分かりやすく解説!
「国民の自由と権利を保障するための政治的な取り組みを獲得しよう!」という自由民権運動が激化する社会情勢に対し、明治政府は新聞紙条例や集会条例の改正で言論を封じ込めようとした他、自由民権運動の中心的人物で自由党の党首・板垣退助を日本から遠ざけ運動自体をなくそうとしていきました。
そうした政府による圧力に対し、自由党員の中から福島事件、秩父事件といった暴力的行動を起こす者があらわれはじめます。
ここでは、自由党が起こした暴発事件について紹介していきます。
福島事件(1882年11月~12月)
福島県令の三島通庸(みしまみちつね)は明治政府の意向を受けて山道やトンネル、橋の整備などの施策に力を入れていました。
そうした三島に対し、
- 一方的に路線を決定すること
- 道路開発などに労役に駆り出される、もしくは人夫賃を出させるかするといった重い負担があったこと
に反対する数千人の農民たちが抵抗します。
県会議長・河野広中ら自由党員や県会議員たちも、この抵抗運動に支援し反発すると、各地で三島非難の演説会と弾圧が繰り返され、何度も流血事件に発展。
福島県会議員の一人が逮捕されたことをきっかけに農民が一か所に集まり解散させられるという事件(喜多方事件)が起こると、ほかの地域にも拡大。
翌日には東京と福島で本格的な弾圧が始まり、河野広中ら25人に加えて参加者ら約2000人が逮捕されました。
なお、この時の県令だった三島はその後、栃木県令となり別の事件を引き起こされることになります。
高田事件(1883年3月)
新潟県高田・頸城地方(現在の上越市)で起こった自由党員ら自由民権運動を行う人たちを検挙・逮捕した事件です。政府転覆容疑で党員らが逮捕されますが、大部分が冤罪でした。
一方で具体性は欠いていたものの『天誅党』と呼ばれる秘密結社を結成して政府高官(参議)の暗殺計画を立てた3名もおり、彼らは国事犯(内乱陰謀予備罪)として告発されています。
群馬事件(1884年5月)
自由党党員の急進派と松方財政下でデフレに苦しむ農民たちによる事件です。群馬県高崎駅開通式に集まる政府高官への襲撃計画が式の延期で叶わず、群馬西部の妙義山(みょうぎさん)で政府転覆を叫んで蜂起しました。
警察署や高利貸しを襲い、指導者らが逮捕されました。
加波山事件(1884年9月)
福島事件で問題のきっかけとなった元福島県令で栃木県令となっていた三島通庸ら高官暗殺を計画して爆裂弾を製造したのが発覚して加波山(かばさん)にこもり暴動化した事件です。
計画した者たちは福島事件にかかわったグループが中心で、茨木や栃木の民権家が加わっています。グループ内の一人が爆弾製造中に誤って爆発させてしまったことで計画が発覚したと言われています。
挙兵参加者わずか16名でしたが、逮捕が数百人単位でされるほど大きな規模になりました。実際に起訴されたのは16名+若干名。国事犯ではなく強盗犯として7名に死刑判決が下されています。
これまでの事件で解党論が出始めたところに加波山事件が起こったことで、いよいよ解党が本格的に検討されるように。結局、1884年10月29日に解散となりました。
秩父事件(1884年10月~11月)
自由党解散直後の10月31日に発生した自由党急進派による最大の蜂起事件です。
松方デフレの影響による農作物の価格暴落に加えて、養蚕業がヨーロッパの大不況を受けて大打撃をくらいます。養蚕業は日本の一大輸出品・生糸の原材料であるカイコを育てる仕事であり、秩父で盛んに行なわれていたため、秩父でも暴動がおこったのです。
当時のヨーロッパでは産業革命が諸国で起こり、大量生産がなされていました。需要に対し供給量が多すぎることで価格破壊などを起こし不況になっていました。
数千人の貧農たちが自由党急進派の影響を受けて、困民党・借金等を組織すると、
- 借金の年賦返済
- 村費減免
- 学校※の一時停止を要求
します。
※近代化するにあたって明治政府は教育に力を入れており、近代教育のための制度が整えられていました。当時の貧農たちにとって働き手の一人として考えられた子供が学校に通うことは労働力の流出と学業に必要な経済負担が重荷と考えられています。
高利貸しや地主を襲撃し、郡役所を占拠するなど、かなり大規模な暴動となったため、最終的には軍の出動により収められました。逮捕者はおよそ4000人とも言われています。
名古屋事件(1884年10月)
名古屋の自由党急進派が政府転覆計画を企て、豪商への強盗や村役場からの略奪(←怪我人出しています)、紙幣偽造などで資金集め。強盗帰りに警官殺害事件も引き起こして検挙されました。
名古屋事件の参加者も自由党員に加え、窮乏にあえぐ貧農や都市細民たちだったと言われています。
※wikiだと1884年12月に起こった事件とされていますが、ここでは参考にしている詳説日本史(山川出版)を優先して10月としています。
飯田事件(1884年12月)
愛知・長野の自由民権派による政府転覆計画が発覚した事件です。秩父事件と連携して蜂起を企てますが、11月に秩父事件が鎮圧され、飯田事件も発覚。
指導者6名が内乱陰謀罪で処刑されました。
大阪事件(1885年11月)
自由民権運動が下火になる中で、朝鮮で発生した1882年の壬午軍乱や1884年の甲申政変で親日派が後退しているのを見た自由党左派が、日本国内の改革を刺激することを目的に大井憲太郎らが朝鮮の内政改革を企図したことが発覚した事件です。
武器を調達して渡航を計画しますが、内部の裏切りで事が起こる前に139名が逮捕されました。
静岡事件(1886年6月)
静岡を中心に、東京・愛知・岐阜などでおよそ2年にもわたって軍資金調達のために強盗を行い、政府転覆・高官暗殺を企てた事件で、百余名が検挙されました。
国家転覆の後は静岡に隠居していた徳川慶喜を擁立しようという計画を立てていたなんて話もあるようです。
この事件が自由民権運動最後の反乱計画となりました。
政府の動き
こうした数々の反政府勢力による自由民権運動が起こったのに対して政府は取り締まりを行うと同時に、自分たちが主導した立憲政治を行っていこうという方向に向かうことになります。
こうして国家体制が整備され、いよいよ憲法や政治・法律諸制度の導入が本格的になっていくのでした。