日本史

文明開化で日本はどう変わったの?【明治時代】

歴ブロ

明治維新とそれに伴う激動は政治面だけでなく、文化面にも大きな影響を与えました。

文明開化は西洋の国々に追いつくため、近代西洋の文明を取り入れたり手本としようという動きのことを指しています。

多くの技術者や学者、教師などの外国人を政府が雇い入れ(いわゆるお雇い外国人)、先進国の制度や知識、技術を熱心に学びました。それに伴い、西洋文化も取り入れられるようになっていきます。

あまりにも熱心すぎたため

「半髪頭をたたいてみれば、因循姑息な音がする。総髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」

とこれまでの文化を皮肉めいた歌までうたわれました。

ここでは教育/国民生活/思想に分けてどんな変化があったのかまとめていきましょう。

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教育制度の変化

近代化を有効にするために明治政府が進めたのは、国民の教育水準を高めること。

欧米の学校教育制度を採用し、1871(明治4)年の教育行政を担当する文部省の設置、1872(明治5)年の学制の公布と日本の近代教育を進めるための制度を整えていきました。

教育制度制定にあたってぶつかった壁とは?

ところが、当時の子供は働き手の一人と考えられていた上に小さなうちから家業に携わる方が「仕事を覚えるから」と保護者の方があまり積極的ではありませんでした。

結果、小学校は全国で2万校以上設立されますが、1875(明治8)年には男子の就学率50%以上、女子の就学率は18.7%に留まっています。特に農村では通学反対の声が根強く、農民一揆まで起きた場所もあったようです。

実際にどんな学校が出来たの?

当時創られた学校には、大きく

  • 官立教育機関として構想され設立された学校
  • 女子教育機関として設立された学校
  • 民間における教育機関として設立された学校

と3つに分けることが出来ます。それぞれ簡単にまとめていきましょう。

官立教育機関

江戸幕府の直轄教育機関で儒学・漢学を学ぶ場であった『昌平坂学問所』や幕府の洋学機関『開成所』を受け継いで『大学南校(後の東京開成学校)』が設置されました。日本人洋学者、外国人教師を招き、洋学を中心に高等教育を学ぶ場となっています。

やがて、こちらも江戸幕府から接収した『医学所』を改称して設立した『医学校』が『大学東校』ついで『東京医学校』と改称された学校と合併。

1877(明治10)年には日本初の西洋風の近代的総合大学・東京大学となり、学術研究や高等教育の中心となっていきました。

女子教育機関

女子教育では1872(明治5)年に性差別のない普通教育を受けられる官立女学校(東京)でしたが、財政難を理由に1877(明治12)年には廃校に。

その後、1882年になると女子師範学校として再発足しています。この時の教育方針は良妻賢母の養成に代わっていたようです。

民間教育機関

いわゆる私立学校の創設で、現在でも知られる大学も多いです。例えば

  • 慶応義塾:福沢諭吉設立
  • 同支社:新島襄設立など

特色のある学風で新時代にふさわしい人材育成に努めていきました。

国民生活の変化

主に大都会を中心に国民生活にも変化が訪れました。

人の変化

1871(明治4)年には散髪脱刀令が法令として出され、自由な髪形が推奨されます。「自由」なので髷を結ったままの者もいましたが、改革推進派の県令が着任した地域では取り締まられることもあったようです。

一方で散髪脱刀令の対象が女性も含むと考えた人もいたため、翌年には『女子断髪禁止令』も出されています。

こうした変化もあって、次第に散切りの頭髪洋服の着用が広まっていくことになりました。

街並みの変化

1872(明治5)年に起きた銀座一帯を巻き込んだ火災を機に防火・美観を考慮した煉瓦造りの洋風建築物が並んだ銀座通りができたり、街路にガス灯ランプがともるようになります。また、人力車馬車も走り始めています。

食の変化

『牛店雑談/安愚楽鍋 三編』(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/300025416

肉食の習慣ができ、中でも牛肉が喜ばれました。

1875(明治8)年に東京で70軒ほどだった牛肉屋が1877(明治10)年には588軒まで増えるほどの流行りっぷりでした。牛鍋が最初に考案されたのが横浜ということで、横浜や東京では牛鍋とビールの組み合わせがかなり浸透していったそうです。

キリンのテーマ別解説『食文化とビール』に詳しく載っています。

暦・休日の変化

日本では古来より旧暦(太陰暦)が用いられてきましたが、西洋諸国に倣った暦・太陽暦と後に日曜を休日とする休日制も採用されていきます。

同時に地方の農村部では旧暦による年中行事が行われるなど江戸時代とあまり変わらない伝統的な生活習慣が根付いたままでいました。

この時点での西洋風の風俗や習慣は、大都会や開港場、官庁、学校、軍隊に留まっていたようです。

思想の変化

欧米から入ってきた自由主義、功利主義の思想・学問、それに基づく政治制度・経済組織・法律などの新知識が啓蒙思想家たちによって紹介・主唱されていきます。

ヨーロッパの啓蒙思想/自由主義

ヨーロッパで啓蒙思想が初めて起こったのは18世紀。ロックモンテスキュールソーなどが代表的な人物として挙げられます。

それまでの「キリスト教的な世界観、思想、慣習」から「近代的で合理的な世界観」に移行できるような知識体系を作ろうとした運動のことで、それぞれ自然権/社会契約説(ロック)三権分立(モンテスキュー)人民主義(ルソー)などを説き、18世紀末のフランス革命にも影響を与えたとされています。

一方の自由主義は、絶対王政における君主からの束縛から脱して経済や政治の干渉や規制を最小限にしようというところから始まり、個人の自由な活動を重んじようという思想。こちらもフランス革命に影響を与え、19世紀にはヨーロッパ中に広がっていました。

日本での有名どころの啓蒙思想家たちと彼らによる著書を紹介していきましょう。

著訳者名著訳書(原作者)刊行年
福沢諭吉西洋事情1866年
学問のすゝめ1872年
文明論之概略1875年
通俗民権論1878年
加藤弘之立憲政体略1868年
真政大意1870年
国体新論1874年
人権新説1882年
中村正直西国立志編(スマイルズ)1871年
自由之理(ミル)1872年
田口卯吉日本開化小史1877年
津田真道泰西国法論1868年
蓑作麟祥
(みつくりりんしょう)
万国新史1872年
中江兆民民約訳解(ルソー)1881年
植木枝盛民権自由論1879年
馬場辰猪
(ばばたつい)
天賦人権論1883年

他にも『泰西国法論』を書いた津田真道と共に、幕末に幕府の留学生としてヨーロッパに行った西周(にしあまね)の書いた哲学や論理学の著作もこの時期書かれています。

こうした日本の啓蒙思想家たちは1873(明治6)森有礼(もりありのり)の提案で西洋の学会に倣った明六社に集まりました。

さらに、こうした新しい思想や新知識を普及させるのに一役買ったのが、新聞・雑誌・出版事業です。その裏には鉛製活字の量産に成功した本木昌造の存在が大きかったようです。

1870(明治3)年には日本最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が、続けて現在でも発行されている『読売新聞』や『朝日新聞』。ほかにも『東京日日新聞』『日新真事誌』『朝野新聞』などが創刊されました。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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