英語が話せないイギリス王の誕生と責任内閣制の成立<イギリス/各国史>
以前、ジェームズ2世の代の名誉革命を経て、メアリ2世とウィリアム3世が「議会が優位」とする権利の宣言を受け入れたうえで即位したところまでお話ししました。
今回はメアリ2世の妹、アン女王以降のイギリスについてまとめていきます。
アン女王
1702年、姉のメアリー2世の死後に単独統治を続けたウィリアム3世が死去。夫妻は三度の流産で子がおらず、メアリ2世の妹・アンが即位しました。
アン女王の治世中の1707年、これまでの『同君連合』から正式にスコットランドと同一国家大ブリテン王国に代わった他、女王として君臨している間にウィリアム3世の治世下で始まっていたスペイン継承戦争やアン女王戦争といったいくつかの戦争に参戦し、一部で成果も上げています。
ところが、彼女もまた流産・死産を繰り返しました。
生涯で17回妊娠し、うち6回の流産と6回の死産(彼女の持病が関係していたと言われています)。待ち望んで生まれた子たちも天然痘で早くに亡くなり、水頭症を患ったウィリアム王子のみが11歳まで成長しましたが猩紅熱が原因で亡くなってしまいます。
アン女王は子どもを次々と亡くす不幸に加え、仲の良い夫にも先立たれたことでお酒に溺れていきました。お酒以外にも紅茶(アフタヌーンティーを始めたのはアン女王とも言われています)好きも祟って極度の肥満となっており、晩年には体調不良が続き後継者のないまま亡くなっています。
ハノーヴァー朝と責任内閣制の始まり
1714年にアン女王が亡くなってステュアート朝が断絶すると、親戚でドイツのハノーファー選帝侯ゲオルクを国王・ジョージ1世としてイギリスに迎え入れます。このジョージ1世こそが英語の離せない国王で、彼の即位によりイギリスの王朝はハノーヴァー朝が創設されました。
「ステュアート朝の血を引くプロテスタント」の条件と一致していたため、アン女王の生前から決められていました。
彼は既に54歳で英語が話せず、イギリスにあまり馴染めません。選帝侯の地位についていたこともあって度々ドイツに戻っており、政治は議会に任せきりにしています。
そのため、1721年にはホイッグ党のウォルポールが実権を握り実質的な初の首相となると、徐々に責任内閣制が形成されるようになりました。
ウォルポールは20年以上にわたって内閣を率いて、重商主義政策でイギリスの国内産業を保護。財政の安定化を図っています。
ウォルポールまでの財政政策は功を成し、
- イングランド銀行の創設(1694年)
- 国際制度の整備
などでイギリスの対外戦争の遂行能力は急速に高まっていったのでした。
責任内閣制とは?
最後に責任内閣制について。
責任内閣制とは『内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う(詳説世界史研究より)』制度のことです。
そもそも内閣は、クロムウェルの独裁時代が終わり王政復古のために迎えられたチャールズ2世の治世下が始まりだったとされています。
議会にも影響力を持つ5人の寵臣に委任して、人が来ない宮廷の小部屋で重要な国務や議会対策を協議しました。
当初は王権の補佐機関でしたが、次第に議会の統制下で国の行政権を担当する機関に変容。内閣は議会の多数派を占める政党の代表で構成されるようになったのです。