江戸幕府の老中制の移り変わり 其の三
其の二では、大老・井伊直弼の大きな権力までを書いていきました。
其の三では、その強行的に幕政を行ってた井伊直弼の弾圧から書いていきましょう。
幕末期の老中制の崩壊
水戸藩主・徳川斉昭を処分したのち、13代将軍・家定が死去しました。
時期将軍には、井伊直弼が推していた家福が家茂と改名し、徳川宗家を継ぎました。
孝明天皇は開国の強行に出た直弼に対して、許可なく条約に調印した事に激怒し、五摂家の近衛らに賛同を経て水戸藩に密勅を出し徳川斉昭に幕政改革をするように命じました。
これに対し、直弼は尊王攘夷派の志士の弾圧に出ます…
安政の大獄と桜田門外の変
井伊直弼は、条約調印を報告するために、老中・間部詮勝を上京させ天皇に報告をさせました。同時に、尊王攘夷派の志士たちを次々と逮捕し弾圧を図ります。
これが俗にいう安政の大獄です。
また、水戸藩に厳しい処分を行おうとする直弼に寛大な処分を進言した老中・間部詮勝と太田資始が罷免されました。
この安政の大獄で、軽視した8人の内その半数が水戸藩士で、直弼を恨んだ水戸藩士たちは脱藩し井伊直弼暗殺を虎視眈々と狙っていました。
1858年3月3日、井伊直弼は大雪の中、駕籠で登城している途中の桜田門外で、水戸藩浪士17名、薩摩浪藩士1名に襲撃されてその命を落とします。享年46歳でした。
井伊直弼が討たれたのち、幕府の権威を復活させようと家茂と和宮の縁組を実現することで公武合体を天下に示し、威信の回復に努めますが、一度失ったものは元に戻るものでもなく、幕府老中制と共に崩壊の一途をたどります。
坂下門外の変
1861年に江戸に和宮が下り、安藤信正による公武合体策は一応は成功しますが、1862年に信正は坂下門外で水戸藩士に襲撃されて負傷しました。これにより、信正は老中を罷免されることになりました。
文久の政治改革
1862年4月、幕府の老中制の根幹を覆す事件が起こりました。
薩摩藩主・島津久光が幕政改革を目指し兵を率いて上京すると言うのです。この時、京都所司代・酒井忠義は為す術がなく、老中達に助けを求めますが拒否されました。その間、島津久光は江戸に至り、幕政改革の意見書を提出しました。
その改革案に、御三卿田安家の松平春嶽の大老就任と将軍家茂の後見役に一橋家の徳川慶喜が就任があり、老中達は頭を悩ませましたが、結局は同意せざる得ませんでした。
7月6日には、慶喜が将軍・家茂の後見役となり、9日には松平春嶽が政事総裁職となりました。春嶽が大老ではなく、政事総裁職となったのは、家格の問題で老中・大老の多くは5~6万石の譜代大名であったので、御三卿や御三家が就任するのはあり得ないことでの処置だったようです。
こうして、幕府の中枢に将軍後見職と政事総裁職、老中制が混在する形となり、それぞれの思惑が違うために意思決定機構が分裂していくことになります。幕府の老中は、もう名ばかりで最高の意思決定機関ではなくなりました。
しかし、腐っても鯛で老中制そのものは維持されたままでした。
老中制の最後
1866年、14代将軍・家茂が大阪城で没しました。
状況が状況だけに、将軍職は一日も空いてはいけないと、家茂の後見役だった慶喜を徳川宗家の後継者として迎えました。
慶喜時代の老中制は、現在の国務大臣のような役割を持っていました。
常に慶喜の側にいた官房長官的な老中・板倉勝静、会計総裁が松平康直、外務大臣的な老中が、小笠原長行や陸軍と海軍の総裁も老中格として扱われました。
大政奉還
慶喜は大政奉還後も老中を任命しています。
事実上、幕府が消滅しても老中が任命されていると言うのは、老中はあくまでも徳川家の老臣であると言う事で、幕府が無くなっても老中は残っていました。
最後の老中・稲葉正邦
この時の老中は、板倉勝静、稲葉正巳、酒井忠惇、松平康直、小笠原長行、稲葉正邦らがいました。しかし、板倉が辞任したのを皮切りに、稲葉正邦以外全員がそれぞれ辞任を申し出ました。
これにより幕府の老中制が完全に崩壊した瞬間でした。
1868年2月、徳川慶喜は江戸城を出て謹慎をしました。
しかし、江戸城には老中・稲葉正邦が最後まで残り、財務処理を行っています。
その後、新政府によって謹慎処分を受けますが、翌年の版籍奉還により淀藩知事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県で知事職を辞しました。
こうして、
稲葉正邦の老中お役御免で徳川幕府と老中制が幕を閉じていきました…
まとめ
江戸幕府の老中制は、徳川家の家政機関である老臣を全国統治の組織としたもので、徳川家康が征夷大将軍となり、全国の大名に号令する地位になった事によって可能となった仕組みです。
当初は、【年寄】と呼ばれ、家康【将軍】の相談にあずかり、その言葉を全国に伝達するに過ぎなかったので、有力大名が行うのではなく将軍の側近が務めればよかったのです。
老中が将軍と独立した組織となったきっかけとしたのが、11歳で将軍を継いだ4代将軍・家綱の時代。これまで、将軍の意思が最初に在って運営されてた政治が、老中の考えに基づいて上申された事を将軍が裁定する形に変化したのです。
こうして、老中制が将軍の意思から独立した役割を持つようになりました。
5代綱吉の時代になると、老中制度が将軍の意思からある程度独立した組織になっていたことで老中とは別に側近が必要となり、側用人制度が確立されてきました。
また、老中の任命方法も綱吉の時代に変化し、支流で将軍となった綱吉は小姓などの側近から老中を任命することができず、奏者番→寺社奉行→大阪城代→京都所司代とキャリアを積んだ譜代大名を老中にしました。
これにより、官僚的な老中昇格コースが確立したのです。
吉宗の時代になると、これまで老中を出したことのない譜代大名が老中になることもあり、老中制が全国統治の組織として完全に確立していくのでした。こうして、老中は譜代大名と言う条件は変わらなかったが、能力や評判があればどこの家にもチャンスがある役職となたったのです。
その後、老中の昇格コースが側用人を経て老中になったり、大阪城代や寺社奉行から飛び級で老中になったりと、歴代の職務より将軍との相性や受けなどで登用する者が目立ってきます。また、11代・12代と長期政権だったので、より幕政を仕切る能力が必要とされたようです。
そして、幕末期に老中制が崩壊の一途をたどるのですが、これは老中制が崩壊したと言うより、老中制に力を与えていた将軍の権力弱体化によるものなのは皆様もお気づきでしょう。
あくまでも老中は、譜代大名でもそれほど高い地位のあったものではありませんでした。それでも、全国組織として機能していたのは、その背後に将軍の権威があったからなのです。その権威が無くなれば、たかが中堅クラスの譜代大名で構成された組織が機能するわけがありません。
以上が、江戸幕府の老中制の移り変わりを長々と書きましたが、上記のまとめが一番わかりやすと思うのは私だけでしょうか??詳しく知りたい方は、頑張って読んでください。
長文失礼しました…