藤原道長の歴史的功績と紫式部との関係
平安時代の代表的な人物と言えば藤原道長。歴史の教科書に必ず載っている偉人として知らない人は少ないと思います。藤原鎌足を祖とする藤原氏の子孫は多く、現代でもその血筋は残り続けています。歴史的にみても、源氏や平氏と共に日本を形成した一族だったと言えるでしょう。
そこで今回は、光る君で重要な人物であろう藤原道長が日本の歴史に及ぼした功績と紫式部との関係に触れていきたいと思います。
※この記事はyahooニュースエキスパートの記事を転載・加筆しています。
藤原道長はどんな人物だったのか
本題に入る前に道長について少し紹介しましょう。
966年に朝廷の中枢を担っていた藤原兼家の五男※として生まれます。そのため、藤原氏長者になるのはよほどのことがない限りない立場でした。
この時代は貴族達の権力闘争が激しく、おそらく大河ドラマの『光る君へ』でも描写すると思います。そのため、この頃の政治の中心だった藤原氏といえどすぐに足元をすくわれる事もあり得る状況でした。
そういった事情を考えれば、五男と言う立ち位置は「自分がやらなければ誰の助けも得られない」境遇だったと言えます。
※Wikipedia等では5男と書かれていますが、史料によって3男とする見解もあります。ここでは、5男とします。
藤原道長の出世の転機
987年の道長が22歳の頃に左大臣・源雅信の娘・倫子との結婚で転機が訪れます。
源雅信は倫子を天皇に入内させようと思っていたので、道長との結婚は反対だったようでしたが、倫子の母が道長に将来性を感じ説得して結婚に至ったそうです。一方で、雅信と兼家は政敵同士で両家のわだかまりを緩和しようという意図もあったようです。
こうして道長は結婚によって左大臣の後ろ盾を得ることに成功し、出世競争のスタートラインに立つことが出来ました。
疫病の流行
日本ではこの頃に初めて赤斑痘(はしか)が流行したと言われています。しかも当時の致死率は5~30%あり、痘瘡(天然痘)に次ぐ感染症でした。
この感染症は藤原氏にも大きな影響を与え、兼家が990年7月に62歳で亡くなり、次々と藤原氏長者候補が死去。その結果、氏長者から遠かった道長が一気に候補へと近づきます。日本ではこの頃に初めて赤斑痘(はしか)が流行したと言われています。しかも当時の致死率は5~30%あり、痘瘡(天然痘)に次ぐ感染症でした。
藤原道長と伊周の政権争い
疫病によって氏長者候補が次々と亡くなり道長が候補者に近づいたとは言え、まだ実兄・道隆の子・藤原尹周が残っていました。ところが、996年に花山法皇の暗殺未遂事件により尹周は朝廷から追放されます。
こうして藤原道長は、結婚・疫病・暗殺事件を機に藤原氏長者の座を獲得する事が出来ました。この時の道長は関白や摂政の地位は目指さずに、動きがとりやすい内覧と左大臣の職に留まり続けています。
その後、道長の娘達を天皇に入内させ天皇の外戚の地位を確立して権力を掌握し、最終的には太政大臣に就き位人臣を極めることになりました。
藤原道長は結局何をした人??
上記のように出世の見込みがなかった藤原道長が太政大臣まで上り詰めて行ったのかを簡単に紹介しました。しかし、自分の娘を天皇に嫁がせて出世しただけでは、教科書に載るような有名人ではなかったことでしょう。
父・兼家も同じ手法で出世していますし、道長が生まれる100年前の藤原良房も同じことをしています。
では『天皇の権威を利用して、さぞかし良い政治を行ったのか?』と思えば、当時の平安貴族たちは世のために政治を行うという感覚がありません。
簡潔に言えば藤原氏を繁栄させただけにつきます。
では、なぜ道長だけがここまで有名人となったのでしょうか?
藤原道長と紫式部の関係と道長の功績
有力な貴族が天皇に娘を嫁がせる過程で、天皇が自分の娘の所へ足しげく通ってもらうために色々な仕掛けをします。
その一つが女房と言うお世話係の存在。
一条天皇に娘・彰子を嫁がせるときに、道長は優秀な女房たちを集めました。大河ドラマの『光る君へ』の主人公・紫式部もその一人でした。よって道長との関係は主従関係といえます。一説には恋人関係ともいわれており、光る君への第一回を見る限り恋人ルートもありそうです。
同じ時代に活躍した清少納言は道長の兄・道隆に仕える女房でした。
藤原道長の功績
『なぜ歴史の教科書に取り上げられるのか?』と言うと…
平安時代は漢字から【ひらがなとカタカナ】が生まれ、日本語に大きな影響を与えた時代でもあります。
漢字の一部からカタカナが生まれ、草書体をさらに崩してできたのが平仮名です。当時『漢文は男性が身に着ける教養』とされていることから、男性は漢字とカタカナ、女性はそれらを学ぶことが避けられ、ひらがなで文章を書くようになりました。
清少納言や紫式部達以外にも漢文や漢字に精通していた女性は数多くいたはずですが、世間体を考えて表にはあまり出ていませんでした。この考え方を緩和させたのが藤原道長で、自分の娘を教育するために詩や物語の才能がある女性を集めていました。
漢文を学ぶ女性が多数派になりませんが、少なくとも和歌の技術を磨くために和歌集を詠んだり、歌作りで字を書くために勉強する習慣は定着しました。
このような環境を作ったのが道長であり、パトロンとして紫式部を支援して『源氏物語』が出来上がっていくのです。女流作家たちが存在しなかったら、平仮名が存在してなかったかもしれません。
現在の日本でもこの平安時代に作られた平仮名やカタカナを使用しており、私たち特有の文字として使われています。間接的ではあるにせよ、この時期の日本独自の『国風文化』が花咲くきっかけを作った功績が大きく歴史の教科書に取り上げられるのだと思います。