豊臣政権で決められた五大老・五奉行のその後の人生はどういうものだったのか??
秀吉の死後、豊臣秀頼を補佐する形で政権を維持するために作られたのが、五大老・五奉行制度。この10人の合議制によって政務を行うとしてきましたが、徳川家康の台頭により、数年で瓦解してしまいました。
やがて徳川家康と石田三成が対立。他の8人や大名家・豊臣家臣団の分裂を招き、それぞれの思惑のもとに東軍と西軍に分かれて争いました。1600年の関ヶ原の戦いです。
そこで、五大老・五奉行のその後の人生と関ヶ原の戦後処理を簡単にまとめてみました。
この記事は、yahooニュースエキスパートの記事をブログ用に加筆・修正したものです。
五大老とは??
秀次事件後に、政権の安定を図るために秀吉は5人の有力大名※たちに連署を書かせました。
そのメンバーを『五大老』と呼びます。
初期メンバーに小早川隆景がいましたが、1597年に病没した事で上杉景勝が後釜に就きました。※初期メンバーは6人とも言われています。
当時の官位等から徳川家康≧前田利家>毛利輝元>宇喜多秀家>上杉景勝と言った序列でした。しかし、秀吉の親友でもあり秀頼の傅役だった前田利家は、石高こそ毛利・上杉より少ないが、家康と同等の序列だったと言われています。
では、5人の五大老を見ていきましょう。
天下統一を果たし幕府を開いた徳川家康
関東に転封してからは250万石以上の大名となり、豊臣家に次ぐ実力を持っていました。
五大老のなかではブッチギリに力を持っており、前田利家が唯一、家康に対抗できる存在だったと言われています。
その利家が亡くなると、秘密裏に自分の派閥を広げた事で石田三成との対立が激化。一時は、三成を隠居させるまで追い詰めます。
ところが、1600年に家康が上杉討伐を決めると、石田三成は上杉と共闘するために出兵。家康は、すぐに反転し関ヶ原の戦いが始まりました。
関ヶ原の戦いで三成を打ち破ると、1603年に江戸幕府を設立しています。
そして、1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を見届け1616年に亡くなりました。
前田利家と関が原後の前田家
豊臣秀吉が亡くなった時、前田利家は加賀・越中の約80万石の大名でした。
先述しましたが、秀吉とは古くからの付き合いで親友でありながら秀頼の傅役だった事で、石高は五大老中4番目ながら、その序列は家康に次ぐ2番目でした。
秀吉の死後に徳川家康が遺言を確信犯的に破っていくのをすぐさま非難したのも利家で、家康も利家にはあまり強く出ていませんでした。秀吉の期待通りに前田利家は家康をある程度抑え込むことには成功していますが、1599年に病死。
秀吉が死去してわずか8カ月後のことでした。
その後の前田家は、嫡男・利長が家督を継ぐのですが利長は実母を徳川家の人質として送り家康に臣従し、加賀前田藩の祖として幕末まで続きます。
人生の大半を八丈島で暮らした宇喜多秀家
五大老中で一番波乱万丈な人生を送ったのは、彼かもしれません。
秀吉が存命の頃は、気に入られて破格の47万石を有する大名でした。正室には前田利家の子でもあり、秀吉の養女・豪姫も娶っています。
五大老にも指名され、順風満帆な人生を送っていましたが、関ヶ原の戦いで西軍の副大将に祭り上げられ敗北し、戦後は島津氏に匿われます。しかし、1606年に島津氏が徳川に臣従するのをキッカケに、秀家は家康に引渡され宇喜多家は改易処分に…
何とか命は助けられたものの八丈島に流され、その長い人生を島で暮らしました。一方で、正室・豪姫は、元実家の前田家に引き取られ、夫婦は離れ離れになります。
宇喜多秀家が亡くなったのは1655年で享年84の大往生でした。
謙信の後継者、会津の上杉景勝
秀吉が政権を取ると臣従し、会津で120万石を有する大大名となります。
秀吉死後に標的となり、家康は1600年に会津討伐に乗り出しました。しかし、上杉景勝(直江兼続)と密に連絡を取っていた石田三成が挙兵すると、家康は三成に兵を向けて関ヶ原の戦いが始まります。
本戦には参加していませんが、東軍に与した東北の伊達・最上と慶長出羽合戦で争いました。関が原後の戦後処理で120万石⇒30万石まで減封され、米沢に移されました。
米沢藩の初代藩主となった上杉景勝ですが、1623年に69歳でその生涯を閉じます。
西軍総大将になるも何とかお家を守った毛利輝元
秀吉時代は中国地方112万石を有する大大名だった毛利輝元。
関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将として大坂城に入城します。実際に本戦で軍を率いたのは石田三成だったので、輝元は最後まで大坂を離れることはありませんでした。
そのため、112万石から周防・長門の37万石まで減封されますが、戦後処理で一番きついお家取り潰しは免れました。輝元は隠居し、長州藩・初代藩主には嫡男・秀就が就任しています。
1625年に享年73歳で輝元はその生涯を閉じました。
その後の長州藩は幕末には明治維新の雄藩の一つして続いていくことになります。
五奉行は秀吉死後に決められた!?
秀吉存命中は小西行長や大谷吉嗣なども行政の実行奉行として活躍していました。秀吉死後、その中から特に優秀な5人を選抜した奉行を五奉行と言います。
諸説ありますが五奉行は豊臣家直臣で構成されており、浅野長政を筆頭に前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家とされています。石田三成は、五奉行の中での序列は真ん中くらいだったようです。
それでは、五奉行を見ていきましょう。
秀吉の遺志を忠実に守った石田三成
羽柴秀吉の長浜時代に見いだされて以降、側近として仕えていきます。
主に行政を担当していた三成は太閤検地でも活躍し、戦の後方支援(兵站)などでその能力を発揮していました。
秀吉の死後は遺言を忠実に実行していくのですが、徳川家康が秀吉の遺志に反した行動をしていた事で両者は対立していくことになります。こうして、1600年に関ヶ原の戦いで激突するのですが、敗北し処刑されてしまいました。享年41歳でした。
石田三成の子供たちは命は助けられ、娘は津軽信枚に嫁いだり、息子は出家をしています。
五奉行筆頭は、北政所との義兄妹・浅野長政
秀吉の正室・寧々の実家である浅野家。その養子だった長政は、豊臣政権では主に司法を担当していました。石田三成とはあまり仲が良いとは言えず、深く関わらなかったとされています。
関ヶ原の戦いでは徳川方に付き、江戸城の留守居を務めています。
この功績によって、常陸国真壁5万石を与えられ真壁藩を設立。嫡男は、関ヶ原で軍功を挙げて、紀州藩37万石の初代藩主となります。1619年に福島正則が改易となり入れ違いで安芸・広島へ転封しました。
一方で長政は、幕府設立後に家康の側で仕え、1611年に65歳で亡くなっています。
信長の孫・三法師の傅役だった前田玄以
若いころは比叡山の僧であった事から、寺社などに強いパイプがあったとされています。
織田家に仕え、信忠を補佐していました。
本能寺の変では、信忠の命で三法師を連れて京都を脱出することに成功します。
豊臣政権下では、京都所司代を務め朝廷とのパイプ役を務めました。また、寺社の管理などの宗教を担当する奉行として活躍しています。
関ヶ原の戦いでは大坂城に居たが、内通するでもなく軍事行動もするわけでもなく、豊臣秀頼をただひたすら警護し中立を守っていました。この働きによって、家康より丹波亀山5万石を安堵され、初代藩主となります。
1602年に死去し子の茂勝が跡を継ぐのですが、1608年に改易処分を受けています。
関ヶ原ではスパイをしていた!?増田長盛
秀吉が長浜城主時代から仕えていた長盛は、京の三条大橋や五条大橋の改修工事も行うなど土木中心の奉行として活躍しました。
関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いなどで活躍しますが、本戦では参加せずに大坂で城の様子を家康に知らせており、この情報が勝敗を左右するほどの者だったとされています。
西軍が負けると、出家して高野山に追放されます。しかし、大坂の陣の際に嫡男・盛次が豊臣側に寝返ると、その責任をとり1615年に自害しています。
享年71歳の事でした。
丹羽長秀にも仕えていた算術の天才・長束正家
1585年に秀吉に仕え主に財政面の奉行として活躍しました。算術にとても長けていたと言われています。
秀吉死後は、石田三成に付き伏見城攻めなどで活躍しています。関ヶ原本戦では、吉川広家と共に布陣していたが、東軍に寝返った吉川軍に妨害され動くことが出来ず、西軍が壊滅すると撤退をしています。
しかし、東軍の池田軍に捕えられ自害し39歳の若さでその生涯を終えました。
関ヶ原の戦いでは、それぞれの思惑で行動をしていましたが、家康に対してどのような態度を取ったかで、その後の処遇が決まりました。必ずしも、西軍だから命を奪うというわけでは無いようです。
幕府成立後に、幕末まで残った大名は前田・上杉・毛利・浅野となっています。