エンリケ航海王子とは?何をした人か詳しく解説<ポルトガル史>【人物伝】
エンリケ航海王子(wikipedia)より
あだ名が【航海王子】とあることから想像できるかもしれません。大航海時代が始まるにあたりヨーロッパにとって大きく貢献したのがエンリケ航海王子(1349~1460年)です。
エンリケ航海王子がいなければ、その後のヨーロッパの躍進はだいぶ遅れていたことでしょう。逆にアフリカやアメリカの状況は今とは変わったものになっていたかもしれません。今回は、そのエンリケ航海王子が何をしたのか?具体的に探っていきます。
エンリケ王子とはどんな人?
父はポルトガルでアヴィス王朝を開いたジョアン1世、母はイングランドの王子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパ=オブ=レンカストレ(英語名フィリッパ=オブ=ランカスター)。ジョアン1世の第5子で三男として生まれました。
- ランカスター公って?
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ランカスター家は、イングランドの内戦『バラ戦争』で戦った一家で赤いバラが象徴。そのうちフィリッパはランカスター朝を開いたヘンリー4世の姉にあたります。
彼は生涯の大部分を探検と航海への援助と指導に費やしました。
1414年、当時21歳だったエンリケは父と共にアフリカ北岸の都市・セウタ攻略戦に出征。武功を立てると騎士になり、新たな公爵位・ヴィゼウ公に叙されています。
セウタはアフリカ北岸(スペインの対岸にあたる)に位置し、サハラ南部からの金などが集まってくる商業都市でもありました。
エンリケ航海王子はセウタ滞在時に『プレスター・ジョン大王(アジアかアフリカにいる伝説上のキリスト教国の国王)の伝説』を聞き、彼と彼の国の探索に興味を持ったのでした。
そんな彼が27歳の時にテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、以降、宗教への信仰心はさらに高まります。
エンリケ航海王子(wikipedia)『キリスト騎士団の紋章』より
莫大な資産を有したキリスト騎士団。エンリケ航海王子はその指導者の地位を存分に使って探検事業のサポートを行ったのです。
- テンプル騎士団とキリスト騎士団の関係とは?
テンプル騎士団(wikipedia)より
テンプル騎士団は、彼らの持つ莫大な財産に目を付けたフランス国王フィリップ4世(フランス王在位1285~1314年)と当時のローマ教皇クレメンス5世(フィリップ4世後援により選出)によって異端の罪を着せられ解散した悲劇の騎士団です。
ポルトガルの都市トマールを統治していたテンプル騎士団は長年レコンキスタやその後の復興活動に尽力していたこともあって、ヨーロッパでの活動を禁止されていてもポルトガル王ディニス1世(在位1279~1325年)は彼らを庇護していました。
※テンプル騎士団はパリを本部に、支部を全ヨーロッパに設けています。
キリスト騎士団として名を新たに再結成し、騎士団の設立の承認とテンプル騎士団の財産や特権を継承する権利をクレメンス5世の次代教皇と交渉。実際に譲渡を認めさせたのでした。
エンリケ王子が航海王子と呼ばれた理由
エンリケ航海王子は、サグレス岬(ポルトガルの南西端)に研究所を作り
- 航海術
- 天文学
- 地図製作術
などを学ぶことによって航海者を多く養成。
当時のヨーロッパ諸国が行ける最南端の場所はアフリカ大陸西サハラ北部に位置するボジャドール岬で、その奥には「世界の最果て」や「煮えたぎった海」があると信じられていました。
地図で見るだけでは何も変哲もなく見えますが、風の読みにくさによって航海が非常に難しく、船員たちが船から放り出されるような場所だったそうです。
↑ボジャドール岬の位置、画像出典:© OpenStreetMap contributors
が、エンリケ航海王子は数々の研究によって「ボジャドール岬の先は絶対にある」と信じ、航海者たちを派遣。そのたびに何度も失敗しましたが、1434年。ようやくエンリケ航海王子の使用人ジル=エアネスが指揮官に抜擢された船でボジャドール岬を超える事に成功したのでした。
この難所を超えた後、ポルトガルの要塞を築きつつ南下。サハラ砂漠の南端も超え、サハラ砂漠のような難所を通過できるキャラバンに頼らずにアフリカ南部の富を手に入れる航路を確立したのです(アフリカ南部の特産は『金』です。1452年にはポルトガル発の金貨が鋳造されました)。
新たな土地での交易をはじめますが、その過程で現地に住むベルベル人を王室で働かせるため現地から拉致するようなケースが出始めます。これが1450年代に入るとフェーズが変わり、現地の地元勢力同士の戦いなどで捕まえた戦争捕虜や現地の制度下にいた黒人の奴隷をポルトガル商人に売却する『奴隷貿易』へ変化。
後々、中南米での過酷な植民地化で現地民が激減した際には労働力を補うため、それまで以上に奴隷貿易が拡大し、彼らが送り込まれることになったのでした。
こうした功罪を残したエンリケ王子も1460年に66歳で亡くなり、その事業を継承したのはエンリケ王子の甥の子で後にポルトガル王となるジョアン2世です。
このジョアン2世の下で地中海経由でコヴィリャンがインドに、バルト=ロメウがアフリカ最南端の喜望峰に、次代のマヌエル1世の下ではヴァスコ=ダ=ガマがポルトガル念願のインドに到達。
エンリケ王子が目指した幻のキリスト教国家を見つける事はできませんでしたが、ポルトガル繁栄の礎を築くこととなったのです。