戦国時代の武士の給料は論功行賞で決まった!?
戦国時代は、実力があり手柄を挙げていけば大きな出世も夢ではありませんでした。
ところで戦国時代の武士たちは、どのようにして稼ぎ生活をしていたのでしょうか??
現代人のように、働いて給料を貰っていたのでしょうか。それとも別の手段で稼いでいたのでしょうか?
そこで今回は、武士たちの懐事情を紹介して行きましょう。
武士の恩賞は論功行賞で決まる!?
武士は戦で槍働きをする事が本分。いくさで活躍をすればするほど論功行賞で恩賞が期待できました。
その恩賞とは土地(領地)。土地が増えれば、生活が豊かになるのが当時の経済原理でした。
話がそれますが、一生懸命と言う言葉は、元は一所懸命が語源でこの頃の武士たちの生きざまに由来していると言われています。
一所懸命の【所】とは土地のこと。武士たちは土地を増やすために命がけ【懸命】で働いたことから生まれた言葉です。
命がけで働いて得る土地は当時はそれほど大切なものだったのですね。
彼らの恩賞は合戦などで活躍した度合いで決まり、それを決めるの場が論功行賞です。
この論功行賞で各々の功績を議論して恩賞を与えたのです。
論功行賞の場には軍監が同席
各人の功績は主君と重臣たちが議論しますが、その場には必ず軍監と呼ばれる人物が同席していました。軍監とはどの軍団が働きどの程度戦功を挙げたのかを戦場で見極める役割を持っています。
軍監は合戦に精通し、駆け引きをよく知る人物が選ばれました。
豊臣家では、黒田官兵衛や蜂須賀正勝。関ヶ原の戦いの徳川家では、井伊直政がその任務に就いたとされています。
経験や能力がない人物が軍監になると大変なことになります。
豊臣家に仕えていた仙石秀久は、軍監の役目を忘れ策にあれこれと口を出したあげく、味方を見捨てて逃げ出したことで秀吉の逆鱗に触れ改易となりました。
軍監が主に戦場で見ているのは、個人と言うより各隊の働きでした。
どの隊がどのように攻めたのか、どの隊がしっかり守ったのかを戦場で正確に記録しています。論功行賞はあくまで公正な場ですから、嘘や忖度は許されず正直に報告する義務が生じます。
恩賞の取り決めと判断基準
軍監の報告が終わるとよいよ恩賞の取り決めに入ります。
まずは、各隊を取り仕切る部隊長・重臣たちです。
戦国大名の重臣たちとなると、主君の血統が繋がる親族や一門がおり、続いて地元の国衆が続きます。さらに古くから仕えている譜代の重臣も居ました。
武田家で言うと…
信玄の親族として、弟・信繁や信廉、息子・義信や勝頼、そして血縁の穴山信君、木曽義昌。譜代の重臣として、武田四天王を始め、甘利・土屋・小山田と言った者たちやさらに国衆として、真田・小幡・朝比奈と言った面々がいました。
また、活躍した部隊から、部隊長自ら活躍した者を推薦する事もありました。その場合は、どのような戦功を挙げ、首をいくつ取ったかを記録した添え状を付け加える必要がありました。
論功行賞の評価基準
軍監の報告を基にどういった基準で恩賞を決めているのでしょうか??
- 一番槍…最初に敵と槍を突き合せる、または敵に槍を突き入れた人
- 一番太刀…先陣を切って敵に太刀を仕掛け攻め入る
- 一番首…身分に関係なく、最初に敵の首を挙げる
- 一番乗り…城や砦に他に先駆けて一番に到着する
- 太刀打ち…太刀で敵を仕留める
- 組打ち…敵を組み伏せてから首を獲る
- 槍先(やりさき)…槍で敵を仕留めて首を獲る
- 突き槍…敵を槍で数多く突く事、または突いた人
- 槍脇(やりわき)…槍を駆使して味方の手柄を援護する
- 崩際(くずれぎわ)…敵が敗走を始めた時に追撃に活躍する
- 殿槍(しんがりやり)…味方が退却する時に最後尾で味方の退却を助ける
- 負傷者の救助…味方で負傷したものを砦や城に連れて行く
上から4つくらいに、一番〇〇と言った言葉があります。
いくら戦が通常だった時代とは言え、死ぬのはみんな怖いもの。敵を目の前に怖気突くのは誰でもある事です。その恐怖を振り払い、味方を導いた存在である一番〇〇は、手柄として後世までの誉れとされました。
武士が一番欲しいのは土地だった
現代社会に生きている私たちが働いで望むのは、給料アップに他ありません。
江戸時代の武士も、サラリーマンのように俸禄と言う名の給料を貰っていました。
ところが戦国時代の武士たちは少し事情が異なります。
彼らは主君から給料をもらうのではなく、与えられた所領つまり土地から収益を上げていったのです。
これを知行と言い、自分の地位や生活の向上させるには知行のアップが大切でした。
日本で中世と呼ばれる時代では、平安期の初期荘園の時代から、豊臣秀吉の太閤検地を実施した頃までの約500年は、武士たちがこぞって土地を手にすべく身を粉にして働いたのです。
しかし、戦国時代の武士たちは、鎌倉・室町時代の者たちと少々勝手が違ったようです。
戦国大名は領国を一円支配しており、任免権も握っています。鎌倉・室町時代はその土地の支配権は、その武士(御家人)が握っていました。
戦国時代の大名家の家臣達はあくまで土地の管理官に過ぎず、自由裁量権はありません。
もし働きが悪ければ、所領を取り上げられる可能性が有りました。
また、領国内の政治方針も大名が決めています。家臣達は、主家の方針に従い任された土地を治めていました。もう少し、税金をアップしてほしいと思っても、主家がアップするなと言えばそれに従うしかありませんでした。
越後の上杉謙信の所には、敵に土地を奪われた者たちが自分の土地を取り返してくれと頼ってきたと言います。義に熱い謙信は、彼らを助けるために出兵を繰り返し、各地で戦いました。
しかし、前線で働いている家臣達は快く思っていませんでした。
それは戦に勝利しても、土地は自分のモノにならず、元の所有者の物になりほぼただ働き同然で戦をしていました。これに不満を持った家臣達は、こぞって謀反を起こすようになり、謙信は自分と悩まされたそうです。
せっかく土地を貰っても…
先ほど、恩賞として土地が与えられると言いましたが、貰う場所も大きな問題でした。
場所によっては、耕作に適さない荒地だったり、敵国と隣接していたりと不都合なケースも多々あったようで、武士の間で不公平感が生まれ、家臣同士のいがみ合いや境界争いに発展する事も珍しくありませんでした。
そこで大名たちは、不平不満を法律によって抑え込もうとします。
こうしてできたのが分国法で、法によって喧嘩両成敗としたり、徒党を禁じたりしたのです。分国法は大名であったとしても従うべき厳格な規範とされる領国当地の有効な手段でした。
一方で、戦いに勝って敵地を手に入れた場合は、統治が難しいケースもあります。
いつ敵が反撃してくるかわかりませんし、領民が反抗しないとも限りません。小田原北条氏が治めていた地域では、北条氏が善政を敷いていたので、その後釜の大名の統治が中々うまくいかなかったと言われています。
こうした、統治が難しいケースでは、大名の最も信頼のおける側近や家臣達を送り込み、少しでも統治がスムーズにできるようにしたのです。
こうした重要拠点を任される家臣側も、主君の信頼に答えようと統治に励みました。
主君と家臣達の密接なつながりも戦後時代ならではと言えます。
上杉の侵攻に備えて、海津城を守った春日虎綱、あるいは謙信から厩橋城(まやばし)を任された北条高広の働きぶりは良く知られています。
大名たちの土地の取り合いが争い激化の要因だった
大名たちがこぞって争っていたのは、土地が欲しかったからです。
武士たちのモチベーションが上がるのが所領の拡大で、だからこそ主君に従い命を削ったのです。大名自身も家臣達に与える土地が無くなれば、他の土地を増やさなければいけません。
そうしなければ、家臣達を従わせ自身の勢力を維持する事が出来ずに滅ぼされてしまいます。そういった意味では、戦国時代とは際限のない土地の争奪戦の時代だったのです。
時には同盟を破ってまで他国に侵攻しなければ、家臣達を従わせることが出来ませんでした。まさに、終わりのないマラソンです。
ところが、戦国大名の中には、積極的に領土拡大を取らなかった大名もいます。
上杉家や朝倉家などそうですが、両家を見てみると家臣達の謀反が起きているのがわかります。こうしてみると大名たちが求心力を保つには、部下には新しい土地を与え続ける必要があったのかもしれませんね。
土地以外にもらえた意外な恩賞
とは言え、小さい日本の国土、たくさんの武士たちに与える土地は無限ではありません。戦国大名は武士たちの働きを賞するために、土地以外の価値あるものを与えるなどの工夫を重ねていました。金銀などの貴金属もその一つです。
中国地方の尼子晴久は石見銀山を支配下にしていた事で、家臣達に銀を与えていますし、武田信玄は黒川金山からの金を恩賞として与えていました。
土地以外の者を与えた大名として上杉謙信はその最たるもので、上杉家は金・銀山を豊富に所有していました。領国の拡大に限界がある以上、金銀を分け与えるしかなかったと言えます。
上杉謙信は何度の反乱を起こされはしましたが、豊富な金銀を使って家臣達を納得させたいたようです。
金品の他に恩賞として武具を与えた例も少なくなく、徳川家康は愛用の脇差や槍など頻繁に与えていました。
三河武士は犬より忠実を言われていたくらいですから、主君からの愛用の武具を貰った家臣は、感激もひとしおだったのでしょう。武具は武士の魂ですから、主従の絆を深めることにとても役に立っとのだと思います。
同じような手法で織田信長も同じ一面を持っていました。
信長は茶器や茶道具を愛用し『茶の湯は武士のステータス』となるまで価値を高めていきました。要するに茶の湯が出来てこそ一流の武士としたのです。
実際に織田家には茶の湯に精通した人物が多く、豊臣秀吉や滝川一益も茶の湯にのめりこんでいきました。
一説によると、滝川一益は関東の土地より茶器や茶道具が欲しかったと述べたほど、茶の湯にのめりこんでいたようです。
こうした茶の湯による大名統制は、豊臣秀吉に受け継がれていきます。
また、自らの名を与えることも良く行われていました。
織田信長が家臣に【信】の一字を与えて改名を許していました。
この方法を頻繁に行っていたのが、武田信玄でした。
武田家の通り名【信】、そして武田家中興の祖・武田信昌の【昌】の字の使用を許していました。これは家臣にとっては大変な名誉であり、これだけで譜代並みの資格が与えられたと言います。
確かに、武田家には小山田信茂・山県昌景、内藤昌秀、穴山信君、木曽義昌、真田昌幸、下条信氏、甘利信忠と信と昌の字が付くものが立ち並んでいます。
名前の大安売りと言えばそうですが、これが信玄の家臣操作術だったのでしょう。
足軽や雑兵にはどんな報酬があったのか??
ここでは、武士より身分の低い足軽や雑兵たち報酬を考えてみます。
足軽には、農兵と職業足軽の二種類が存在しました。
農村から合戦に駆り出された農兵は農業の閑散期に兵士として従事しており、報酬や給料はゼロで戦で自分たちの食べる兵糧までも持ち出しだったと言います。
ただ働きで士気が上がらないと思われがちですが、実は農兵たちには楽しみがありました。
それは乱取りと言う習慣で、いわゆる敵地へ乗り込んで乱暴狼藉を働くのです。
収穫前の稲を取ったり、金品を強奪したり、時には人さらいまでもあり、戦場に転がっている武具を持ち去っては金に換えていました。
農兵を使う側の武士たちも、士気が下がっても困るので半ば黙認するケースが多かったようです。
職業足軽とはいわゆる下級武士の事で、家を継げない農民の次男以降が出世のためなることが多かったようです。各大名家に就職する事になりますが、よほどのことが無い限り初めの身分は足軽から始まります。
こうして就職先の大名から給料をもらう事になるのですが、当時は5貫文程度が平均でした。現代の価値で50万円(年収)ほどだったようです。年収50万と聞くと、給料は少なく感じますが、衣食住は保障されており生活には困らなかったとされています。
しかし、職業足軽は合戦が終わったあとの乱取りは禁止されており、特に織田家や豊臣家は軍記が厳しく違反をすれば首が飛んだそうです。
豊臣秀吉が天下を取ると、全国の諸大名家の軍団から農兵がいなくなり、足軽から重臣まで全て武士階級が占めていました。しかし、江戸時代に入ると下っ端の足軽たちは、給料だけでは暮らしていけなくなり内職で補っていたようです。
中には生活の苦しさから、帰農する者も少なくなかったとか…