三国志

曹操の台頭とそれを支えた武将たち

歴ブロ

正史の『三国志』で曹操は生まれから記されています。

太祖武皇帝は、沛国譙県の生まれ』と書かれていますが、この時代は両親が沛国譙県生まれであれば、本人が別の地域で生まれてもそのまま出身地となってしまうので、実際にどこで生まれたのかは分かっていません。

冷酷な性格を持つことで知られていますが、お酒の席では陽気で客をもてなしながら大笑いをしていたそうです。酔っぱらって食器に頭を突っ込み冠をべとべとにしたと言うのが文献にも書かれています。

今回は、曹操の出生と袁紹との対立までを書いていきたいと思います。

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宦官の養子という事で何かと不便を強いられた

表向きに曹家は高祖劉邦を早くから助け、漢の建国に大きな功績があった名宰相・曹参の子孫という事になっています。

ところが、曹操の実父が宦官の養子という事で、さらに出生事情が複雑化しています。

曹操の義祖父・曹騰(そうとう)は十常時・大長秋という宦官として最高の地位に上り詰めているのですが、宦官にならなければ要職に就けなかったということは曹家自体が相当落ちぶれていた証拠でもあります。

後に曹操は名文家・陳琳【贅閹の遺醜】=【玉抜き野郎のクソ息子】と自分の祖父の悪口を言われています。

れきぴよ
れきぴよ

陳琳は中国の建安年間(196~220年)を代表する七人の文人に含まれる人物です。

袁紹が官渡の戦い前に書かせた陳琳による曹操(や祖父)の悪口を書いた檄文は曹操本人が見事と思うほどの内容だったそうで、文才を見込んで陳琳をスカウトしています。

幼少期から頭の回転が良くずるがしこいことから【阿瞞】=【ずる賢い】と呼ばれていました。子供の頃から鷹や犬を使った狩りが好きで、遊んでばかりいたようです。後漢時代に政府で出世しようものなら品行方正で徹底的に行儀よくしなければ絶対に評価される事はありませんでした。

それでも推挙されたのは、やはり父親が政府の高官になっていたおかげでしょう。

やんちゃ坊主の曹操でしたが、仕官してからは宦官の横暴を抑えたり不正を暴いたり...とその有能さを発揮するのですが、既に死に体の後漢政府を変えるだけの効果は得られませんでした。

そんな中で曹操は黄巾の乱に従軍しますが、天下を狙えるようなチャンスはこの時点では地位も名誉も持ち合わせていませんでした。

曹操も若いころはきちんと先生に教わっていた

当時、学問と言えば儒教なのですが、勉強する場所と言うのは二通りありました。

一つは盧植のような大学者が個人的に教える事。二つ目は、中央政府の高級官僚や地方の豪族の弟子が教える太学と呼ばれる、現代の国立大学で学ぶことでした。

曹操は高官の息子だからもちろん後者で学んだのですが、こうした太学では学問を学ぶ以外に人脈作りを行う大切な場所でもありました。

太学では全国から若い官僚予備軍や学者の卵たちが集まります。こうした人たちと早い段階からお付き合いして自分の人脈を作りコネをつけたりするのが、就職後の世渡りに大きな影響を及ぼすのです。

こうした場で一緒に酒を酌み交わしたり、討論をしたりと自分を認めさせて名を高めることが必要だったのです。

また、すでに名声の高い人物や学者と出会えることも大きなメリットで、曹操は最初に橋玄から評価されたのですが、まだ名声がないことを心配されて許劭と言う人物を紹介されました。

この許劭と言う人物は人物批評が有名で彼に批評されることが世間の定評となるほどだったと言います。そこで曹操は「自分はどのような人間だろうか?」と質問をして、「治世の能臣、乱世の奸雄」と、その本質を見抜かれています。

れきぴよ
れきぴよ

治世の能臣は、【もし平和な世の中であったなら優秀な官僚になれる】と言う意味で、乱世の奸雄は【もし混乱の世であれば、一国一城を切り取れる】と曹操は許劭に評価されました。

曹操の人心掌握術

曹操は黄巾の乱が起きた時、騎兵隊の隊長として洛陽の東南の川で黄巾賊の討伐にあたり、その功績によって済南国に任命されています。

後漢におけるというものは郡と同じくらいの規模ですが、郡は中央から任命された太守が治めているのに対し、国は皇帝一族や功労の大きかった重臣が治めるものでした。ということで、相とは、ほぼ郡の太守と同格の地方長官のことをさしています。

済南国を治める曹操は、そこで汚職が横行しているのを目の当たりにしました。

そこで、曹操は有力者を後ろ盾にしていた官僚を8割もクビにして地方政府の大掃除を行い、黄巾の乱後も流行していた邪教の禁止を掲げます。

私的に結びついた官僚勢力を徹底的に排除し、すべての権力を自分に集中させました(献帝を手中にしてからも繰り返し行う曹操の政治手法です)。敵は多くなりますが、それをやってのけるのが曹操のすごい所だと言えます。

一方で邪教や汚職を禁止したことで、民衆の支持を獲得。後漢末期の民衆や商人がひどい搾取に苦しめられていことは、黄巾の乱の記事で書きました。

この搾取は「国家のよるもの」より「宦官や豪族たちによる搾取」がひどかったので、これらを退治する事が世間へのアピールにつながったのです。曹操はこうしたアメとムチを使い分けて権力の座へと昇っていくのでした。

曹操を支えた有能な文官・参謀たち

敵の武将であっても有能であれば積極的に登用していたのは曹操でした。曹操は以下の文官の中で随一の人物と言えば荀彧でしょう。

袁紹のもとを去り曹操の元へやってきた時に「我が張良※が来た」と喜んだ程の人材であったようです。※張良は高祖劉邦の最高の参謀の事

荀彧のすごい所は文官ながらの頭の中だけの策士だけではなく、曹操が戦いに出ている間の留守を引き受けて本拠地を守り抜くという軍事的な実務能力が高かった事にあります。

実際に、荀彧は呂布との戦いや袁紹の戦いで、決定的なポイントで助言をしています。その特徴は、現実を直視する徹底的なリアリズムにあります。そういう意味では、荀彧は曹操の忠実な分身だったともいえるでしょう。

次に程昱で、彼もまた文官なのに戦に強く、若い時に黄巾に呼応した反乱軍を自分の里から撃退したという武勇伝があるほどでした。曹操配下時には、荀彧とお留守番をする機会が多かったようですが、彼もまたジャストタイミングで冷静な判断ができる参謀でした。

もう一人外せないのが郭嘉で、荀彧と程昱とは違い参謀らしく現実的な対策よりも先を見越した長期的な戦略の立案や予測が出来ました。赤壁の戦いの時にはすでに郭嘉は死んでいましたが、曹操自身も赤壁は郭嘉さえいてくれれば…と嘆いていました。

他にも、荀彧の甥・荀攸賈詡のような軍師、華歆鍾繇といった有能な行政官が次々と曹操陣営に加わっています。

こうした多くの有能文官が集まった理由として、潁川に曹操の名が知れ渡ったことが大きいと言われています。潁川は、洛陽の東南にある都市で有能な官僚や文化人を多く輩出していました。

荀彧や荀攸の一族もこうした潁川出身の知識階級の人で、荀彧から郭嘉や鐘繇が推挙され歴史に残らなかった有能な文官までもこうした人脈の元曹操陣営に加わっていったのでした。

こうした有能な文官や参謀を得たおかげで、歴史が進めば進むほど曹操軍は兵士や補給不足に悩ませることが無くなり、いつでも戦争ができる体制が出来上がります。それも優秀な行政官によって領土の統治や生産の維持がスムーズに行われたからだとされています。

曹操一族の有能な武将・夏侯一族

曹操の下の世代は正史にも書かれていますが、兄弟や上の世代の事は父親以外わかっていません。そのため、一族の武将と言っても正直ハッキリしません。

曹操の父親は、夏侯氏一族から曹氏に養子へ入ったと言う記録があり、曹一族の武将もハッキリ正史に書かれています。

夏侯惇は曹操が挙兵した時からの人物で、ずっと行動を共にしており、信頼度もナンバーワンでした。夏侯淵は、その従弟でやはり旗揚げ当初の武将として曹操と共に行動をしています。

また、曹仁・曹洪は、曹操の従弟であり、彼らもまた武将として大変優秀な当初からのメンバーです。

もちろん曹操の天才的な軍略は言うまでもありませんが、一族にも多くの優秀な武将がいたことは群雄たちの中でも群を抜いていました。乱世の時代、どんなに優秀な部下でも初戦他人は他人。いつ裏切られるか分かったものではありません。

その点、同じ一族のメンバーであるということは、この時代において同じ運命共同体に属している事でした。

こうした連帯を守った事が、同じ一族でありながら反目を繰り返した袁紹と袁術達・袁氏と違い天下取りへの大切な布石として将来に生きてくるのでした。

曹操軍を支えた猛将たち

挙兵以来の一族武将たちだけではなく、曹操陣営には勇猛な武将たちもいました。

旗揚げ当初は曹操自ら陣頭に立ち機会が多かったので、どうしても身辺を守るボディーガードが必須でした。

そこに採用されたのが典韋です。

呂布との戦い曹操自身が負傷するほど苦戦する中、典韋は突撃隊を率いて大活躍します。それからはずっと曹操の護衛にあたりますが、張繍の謀反により最後は曹操の身代わりとなり壮絶な戦死を遂げました。

典韋の後を継いだのが許褚(きょちょ)で、彼もまた曹操のそばで危ない場面を何度も救っています。この二人が居なければ曹操すら命がないほど旗揚げ当初は厳しかったようです。

こうしたピンチを切り抜けるたびに曹操陣営には多くの勇敢な武将たちが集まってきました。楊奉の配下から徐晃を、呂布からは張遼、袁紹の元からは張郃と言った曹操を軍事面で支えた将軍たちが出揃ってきました。

曹操のすごい所は過去に敵の部下であったのにもかかわらず、優れた武将であることを知るとすぐに重要な作戦の一部方面部隊を任せたりしている事です。一説には人物の能力や忠誠心の確認のためだとされているが、これを実行するには相当の覚悟が必要となるのは言うまでもありません。

後に曹操が前線に出なくなってからは、一族武将を中心に中途採用組が各地で戦争を行い、曹操軍団を支えていきました。

曹操の主力軍団【青洲兵】

長安で董卓が暗殺された頃、曹操は親交を結んでいた鮑信に頼まれて青洲の黄巾賊【百万人】と戦っていました。その戦いは、混戦を極め依頼主の鮑信は、曹操を守って戦死しますが、辛くも勝つことが出来ました。

戦いの後、曹操に黄巾賊から手紙が届けられました。

昔、済南にあなたがいた時に邪教の祭壇を破壊させましたが、それは我々の教えにもかなっています……(中略)……あなたの力で漢を存続させる事は不可能です……

この文章をみると、カルト集団の黄巾賊が邪教を禁止した事を称え、曹操の機嫌を取っているかのように見えます。よく考えると、黄巾賊も元々は困窮した民衆です。これまで曹操のとった政策が民衆レベルでは広く受け入れられている証拠であると言えます。

曹操は黄巾賊たちを上手に降伏させて、兵士三十万とそれ以外の男女百万人以上を収容しました。百数十万人と言えば小さな一つの州の人口くらいです。そして、その中から精鋭の兵士を厳選し青州兵と名づけて、その後の曹操軍の中心兵力となり強敵との戦いに投入しました。

ただ曹操が死去すると、生き残っていた青州兵たちは申し出て故郷に帰ってしまったという話があり、青州兵たちは降伏した時に曹操と何らかの密約があったのかもしれません。 

こうして青洲兵を軍勢に編入してから曹操軍は飛躍的に強くなりました。

もともと宗教的な結束が出来上がっており、その辺の流賊達にはない連帯感があり、平氏としての素質も青州兵は優れていました。現在も、青州のあった山東出身の文言は、背が高くて体格が良く兵隊向きであるそうです。

曹操の勢力拡大と献帝

反董卓連合が空中分解したあと、袁紹は劉表と袁術は公孫瓚と同盟を結びました。

そのほかの群雄は、勢力の拡大をしながら袁紹・袁術の二大勢力とくっ付いたり離れたりを繰り返し、中国大陸でせめぎあってました。

当時、群雄名の中でも弱小勢力だった曹操は、洛陽に近い兗州にやっと本拠地を置き、投降した青洲兵を受け入れて軍備拡大をしました。曹操が本格的に群雄の仲間入りしたのは、まさしくこの時期でした。

一応、曹操は袁紹と劉表側について袁術を攻め立てています。

袁術は、以前劉表との戦いで孫堅を失っており、はるか南へ逃げ延びなければならなかったようです。ところが、徐州を支配していた袁術派の陶謙に自分の父が殺されてしまう事件が起こると、陶謙を攻撃し徐州一帯をメチャクチャにします。

この時代、親が殺されるという事は、とても耐えがたいことで、それに対して報復をしなければ自分の評判も落とすことになります。

やがて陶謙が死去すると、劉備と呂布に支配が取って代わりますが、曹操はかれらも撃破しています。

そして、曹操に人生のターニングポイントが訪れます。

それは、董卓死後に混乱を極めた長安から脱出した後漢のトップ献帝が曹操の下に転がり込んできたのです。とは言うものの献帝を引き受けるということは、後漢の政府機構も一緒に引き受けることになるので手放しに喜んでもいられません。

事実、それが面倒で袁術は皇帝を引き取りませんでした。

しかし、皇帝を担ぐことで曹操の軍勢が官軍を意味することになります。実利はありませんが、天下に号令する大義名分は立ち、それが後になって効いてくることになります。

この頃に曹操は屯田と呼ばれる画期的な生産体制を始めます。

戦乱によって主のいなくなった土地を公有として、流民となった農民たちに貸し与えて、その収穫の何割かを徴収するという制度で、この政策のおかげで常に付きまとっていた軍隊の食糧調達の目途が立つことになりました。

こうして曹操は、中国全土の制圧に向けて地盤を固め、中原の覇権を争い袁紹と刃を交えることになるのです。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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