新選組の隊士たちが集まった試衛館と近藤勇の人間性
幕末の江戸市ヶ谷に天然理心流・試衛館と呼ばれる剣術道場がありました。ここの道場主が後の新選組局長になる近藤勇です。
この試衛館は他の道場と比べると繁盛しているとは言えませんでしたが、門下生には有能な人材が集まっていました。後の新選組・鬼の副長と呼ばれる土方歳三を始め、白川藩士の子・沖田総司や井上源三郎といった剣客が門下生の中にいました。
さらに、この試衛館には、多流派を学んだ者たちも食客として集まっているのが特徴でした。山南敬助と藤堂平助は北辰一刀流、永倉新八は神道無念流の使い手で、斎藤一は無外流で原田左之助は槍の種田宝蔵院流でした。
彼らはふとしたきっかけで近藤勇と出会い、その人間性に引かれ試衛館に出入りするようになっていったようです。同じ年頃の若者たちが集まって剣術に励み国事を語り合っていたのでしょう。
今回は試衛館道場主・近藤勇と試衛館メンバーについて書いてきたいと思います。
天然理心流の始まりはいつ??
近藤勇が入門した天然理心流は、1789年~1800年頃に近藤内蔵之助という剣客が作った剣術でした。その内蔵之助が、天真正伝神道流を学び、それを応用して独自の天然理心流を打ち立てたとされています。
道場は江戸の薬研堀に置き、そこを拠点に多摩や相模にまで出向いて剣術を教授しました。
この流儀は「技より気組み」というのが特徴で、小技に頼らず気力・気迫で敵を圧倒するのが教えです。つまり、形式にはとらわれないより実践的な剣術と言えます。
1807年に内蔵之助が没すると、有力な坂本三助が跡を継ぎ近藤三助と名乗りました。三助は、多摩郡戸吹村に住んでいたため薬研堀ではなく地元に道場を構えています。
そのため、理心流は多摩地方を地盤に広まり、多摩地方ではどの剣術より流行する流派となりました。その門人の数は1500人にもなったと言われています。
1819年に三助が急死すると10年ほど後継者は決められずにいましたが、1830年に多摩群小山村の門人・島崎周助が宗家・三代目を継承しました。この三代目が後の近藤勇の義父となる人物です。
しかし、この頃の理心流は他にも有力な門人がおり、独自に理心流を教えていたことから周助が理心流を掌握しているわけではありませんでした。言うならば、周助は理心流の有力者たち代表と言う程度の立場であったようです。
代表=三代目に就任した周助は姓を近藤と改め、地元で理心流の教授を始めました。こうして、二代目以降、続いて多摩地方の住人が宗家を継いだことから、理心流はますますこの地に根付いた剣術として普及しました。
後に、周助は江戸に進出して市ヶ谷に試衛館を構えます。その後も、多摩地方にも出張し出稽古に赴くこともありました。江戸の門人は50人ほどでしたが、多摩地方には300人以上の門人が散在していたようです。
この出稽古は近藤勇の代になってからも続けられ、1855年以降には勇が竹刀を担いで多摩群を回り、地元の門人たちに稽古をつけていました。まさしく、この多摩地区こそ天然理心流の故郷であり、新選組の始まりでもあるのです。
近藤勇と土方歳三の出会い
近藤勇の出稽古先で出会った一人が土方歳三でした。
近藤は名主・佐藤彦五郎の自宅の道場で農民たちを集め天然理心流の指導をしていますが、その佐藤家には彦五郎の義弟にあたる歳三がよく出入りしていたと言われています。
歳三は勇の一つ下で同年代同士すぐに打ち解けて以降二人は無二の親友となりました。
土方歳三ってどんな人?
豪農の末っ子に生まれた歳三は素行が悪い少年だったようです。
一般的に、家督を継ぐことが出来ない末っ子男子は農家の養子になるか、商家に奉公してのれん分けしてもらう事で一人前にあるしかありません。その例に漏れず歳三も11歳になると呉服商に奉公に出されるのでした。
ところが、番頭に叱られたことが原因で店を飛び出し実家へ戻ってしまい、奉公は長くは続きませんでした。その後、17歳の時にほかの呉服屋に奉公しますが、今度は女性問題を起こしてくびになり、終わってみれば商家への奉公はまともに務まりませんでした。
それもそのはず。歳三は初めから商人になるつもりがなく、近藤と同様に武士になる夢があったため。
同年に夢の現実の第一歩として剣術の修行を決意し、佐藤家に時折来ている近藤周助の理心流に入門したのです。
孤独な天才剣士・沖田総司との出会い
近藤も土方も武士にあこがれて剣を習い極めていきましたが、沖田総司はそうではありませんでした。それは、沖田が生まれながらに武士だったのです。
沖田は、奥州白川藩士・沖田勝次郎の長男として生まれ、1842年に生まれました。
白河藩士とは言え、その暮らしは裕福ではなく父の死後は、口減らしの為に内弟子として周助の試衛館に住み込む形になり剣術修行を開始します。元々剣術の才があったのか、沖田の剣術は飛躍的に上昇し、竹刀を三回繰り出すのが、一つの突きに見えたほど卓越した能力を発揮するようになりました。
近藤や土方と出会ったのは、沖田がたくましい青年になった頃で、10歳ほど離れた近藤や土方はいわば頼れる兄貴のような存在だったようです。1861年に近藤が天然理心流の四代目に就任すると、沖田は試衛館の塾頭を務めるまでになりました。
天然理心流の階級は『切紙⇒序目録⇒中極位目録⇒免許』と昇進していきますが、沖田総司には免許の類は現存していません。しかし、門人たちの筆頭である塾頭を任されたことから、この時点で免許を与えられていると考えた方が自然でしょう。
近藤勇の四代目・天然理心流の襲名
1861年に近藤勇の天然理心流の四代目襲名を披露するための野試合が府中六所宮で行われました。
近藤勇の免許皆伝は、目録が存在していますが、それ以外は残っていないので近藤がいつ免許を与えられ、門人取って教授することが出来る指南免許を与えられたのかは定かではありません。
しかし、宗家を襲名したのですから、この時点までには指南免許を得ていたことは間違いはないでしょう。そのことから、天然理心流に入門してから13年目・28歳にして近藤勇は、理心流の頂点をとった事になります。
先述した野試合には、70人ほどの理心流門人を紅白で分け、境内で騎馬戦のように戦わせた模擬試合でした。そこには、土方歳三・沖田総司・佐藤彦五郎らの有力門人が参加して、近藤の祝いの場を盛り上げました。
この試合の出場者の中には、後の新選組に参加する井上源三郎や山南敬助の姿もありました。
井上源三郎は、徳川家康が創設した江戸の西の要である八王子付近に1000人の守備要因を備えた八王子千人同心の一人の生まれでした。身分の上では武士になるのですが、役目のない時には農業に従事していたことから半士半農の存在でした。
源三郎は三男だったので主に農業に従事していたが、お家柄剣術を好み1846年頃から試衛館の近藤周助に学び始めていました。地道に修行を積んだ結果、1860年には免許を授けられ、周助門下の有力剣士の一人となっていました。
一方、仙台藩士の次男として生まれた山南敬助は江戸に出て北辰一刀流を学び、ある時ふらっと試衛館に立ち寄り近藤勇と手合わせをしたところ、あっけなく敗れてしまって事で近藤門下で天然理心流を修行していました。
理心流一筋の源三郎と数々の流派を渡り歩いた山南敬助。ここまで来た道は違えど、2人は新道場主である近藤勇を支える頼もしい剣客のだったことは言うまでもありません。
近藤勇の試衛館に数々の剣客が集まる
近藤勇が試衛館の道場主になってから、なぜか人が増え始めその何人かは居候として道場に居つき始めました。
永倉新八もその一人でした。
江戸詰めの松前藩士の長倉甚治の嫡男として生まれた永倉は、神道無念流を学び18歳で本目録を与えられた使い手でした。
神道無念流と言えば幕末を代表する名門流派で、天然理心流とは比べ物にならないほどの名門でした。そんな名門での永倉があるに日武者修行の一環で訪れたのが試衛館で、そしてその道場主である近藤勇と意気投合しそのまま居候してしまいました。
剣術の実力はどちらが上だったかは定かではないが、単に剣だけではない人間的な魅力が勇にはあったようです。永倉自身の言葉を借りれば【近藤の身辺からほとばしる義気が自分のそれと合致した】と語っていたと言います。
また、伊勢藩主藤堂和泉守の落胤と自称する若者、北辰一刀流の藤堂平助も近藤勇に惹かれて数ある道場の中でも最盛期を迎えていた玄武館を去って永倉らと共に試衛館へ居候の身となりいつしか居ついてしまうのでした。
さらに試衛館は剣の使い手だけではなく槍を得意とする原田左之助も迎え入れることになります。種田宝蔵院流の使い手だった左之助は下級武士の生まれで上級武士からの扱いが耐え切れず脱藩し、試衛館に転がり込んできました。
試衛館は剣術道場で槍術とは無縁でしたが、近藤勇はこだわることなく左之助を受け入れたのです。
近藤勇という人物は、人が生活に困って自分を頼ってきたら断らない優しさも持っていました。たとえ自分の食費を削っても居候達を養う事をやめなかったと言います。そんな近藤勇の美徳が、試衛館の者たちの固い結束が生まれ、後の新選組の強さの秘密となっていったのでしょう。
そして最後に斎藤一は試衛館の居候ではありませんでしたが、道場に頻繁に通い稽古に参加していたと伝えられています。
斎藤の出身は少し複雑で、明石藩の足軽だった斎藤一の父・山口祐助は若いころ江戸に出て足軽になり、後に御家人株を金で買った人でした。
幕府の直参の武士は将軍に謁見できる【旗本】とその下の【御家人】に分かれていましたが、その御家人の中から生活に困っている者が御家人の資格を売り渡す者も少なくなかったようです。
その息子として剣術の才に恵まれた斎藤は10代のうちに無外流を極め、いつしか天然理心流の試衛館に出入りするようになり、剣術三昧の生活を送っていたようです。
しかし、喧嘩っ早いのが災いし、19歳の時に旗本を切り殺してしまいます。殺人犯として追われる立場になり、京都へ逃げるように消えてしまったのです。この時、山口姓から斎藤へと改名したそうです。
こうして、試衛館には、後の新選組1番から10番までの組長6人が近藤勇の人柄に惹かれ集まってきたのでした。
そんな彼らが、歴史の表舞台に出てきたのが、1863年に行われた幕府の浪士組募集がきっかけでした。集められた浪士たちの任務は、将軍・家茂の上洛にあたり京都での身辺警護を務める事でした。
当時の京都は、尊王攘夷を唱える志士たちが横行し、天誅と称したテロ活動が盛んにおこなわれていました。その対策に苦慮していた幕府が、江戸で浪士を募集し京都へ送り込んで治安維持にあたらせようとしていたのです。
武士になることを夢見ていた試衛館の若者達にとってこの話は、願ってもいない事でした。
自分の腕一つで出世ができると思いを躍らせて近藤達は、京都へ向かうのでした。