クリミア戦争の背景・流れ・終わり方を見てみよう
ニコライ1世の治世~日本との関係悪化まで【ロシア史】の中に出てきた1853年10月16日に発生したクリミア戦争の背景が結構複雑だったので、補足という形で今回はまとめていきます。
加えて、簡単にではありますが戦争でどういった経緯を辿っていったか?どんな形で終結したか?も見ていこうと思います。
クリミア戦争が起こった当時の背景とは?
17世紀のヨーロッパではイタリアのガリレオ=ガリレイやイギリスのニュートンなどをはじめとする人物らによって急速な自然科学の発展【科学革命】が起こりました。
※自然科学が発展には『帰納法』(英、フランシス=ベーコン)や『演繹法』(仏、ルネ=デカルト)といった哲学者による新たな思考法が確立したという背景があったようです
これらの考え方がやがてキリスト教的な世界観を覆し、数々の技術革命を起こし産業革命へと繋がっていきます。
こういった革命を通じて合理的な知を重視する考え方【啓蒙思想】が広がると、啓蒙思想はやがて専制政治や封建制度、教会の否定にも繋がっていきます。やがて啓蒙思想の対象であった権威的な政治体制や教会だけでなく、個人を対象に「絶対君主による抑圧から解放して自由を手に入れよう」という【自由主義】も広まりました。
※自由に価値を置く思想は古代ギリシアやローマの時代から存在していますが、実際に人の生き方や政治運営、経済活動のルールとして表立つようになったのは17~18世紀です
自由主義の考え方が蔓延する中、度重なる国際紛争によって国家財政が圧迫されていたフランスでは王権を倒そうとフランス革命が起こります。
このフランス革命による混乱を収めたナポレオンが権勢をふるいながらも最終的に失脚すると、ヨーロッパ各国はこれまでの反動で自由主義・民族主義を抑え込む方向に進みました。
この方向性に加えて『ヨーロッパの協調』を基本理念としたウィーン体制と呼ばれる体制が敷かれるようになります。
こうしてナポレオンの登場以降、フランスも自由主義を抑える方向に向かって王政復古したのですが中産階級をはじめとした多数いる層で自由主義はくすぶり続け、とうとう1830年王政を再度否定した七月革命が起こされます。
さらに七月革命の結果建てられた七月王政が二月革命により倒されると、自由主義の影響は他のヨーロッパ各国へと波及していきました。
力関係の変化
自由主義の波及前の状況として、17世紀頃に最大版図を作り上げたオスマン帝国と18世紀後半~19世紀初めにかけて産業革命が起こったヨーロッパ諸国の力関係が下記のように変化していました。
17世紀頃 オスマン帝国 > ヨーロッパ
↓
19世紀頃 オスマン帝国 < ヨーロッパ
力を失ったオスマン帝国はロシアの南下政策の標的となった訳です。
この状況下で自由主義・民族主義の波が起きたため、ロシアは正教会の保護者的な立場としてオスマン帝国内で正教徒を信仰していたキリスト教圏の独立を支援するようになります。
例えばオスマン帝国支配下にあったギリシア。ギリシア独立戦争(1821-1829)を起こしますが、この時ロシアはイギリス・フランスも共にギリシアの独立を支援しました。
一方でオスマン帝国側として参加したエジプト。当時はオスマン帝国の支配下にあったのですがシリアを要求します。
「ギリシア独立戦争で(オスマン帝国に)協力したのに見返りがないのはおかしい」
としてオスマン帝国とエジプトの間で『エジプト・トルコ戦争』が勃発したのです。
南下政策を実行していきたいロシアはここでも首を突っ込み(この時はオスマン帝国を支援)1833年にダーダネルス海峡とボスポラス海峡の独占航行権を獲得します。
もちろんギリシア以外のオスマン帝国支配下に置かれていた正教徒に関しても支援しています。敵についたり味方に付いたりしながらオスマン帝国の影響力を確実に削ぎ落していったのです。
主に(西ヨーロッパから見て)東側で領土・民族問題が起こったことから東方問題と呼ばれ、やがてバルカン半島の国際政治上での諸問題を指すようになります。
※この東方問題は第一次世界大戦の一因にもなっていきました。
そんな状況の中で再びエジプトとオスマン帝国が戦ってロンドン会議が開かれると、ロシアの影響力に危機感を抱き始めていた英仏含む参加諸国の反対もあって、前回の条約は破棄されました。
こうした民族問題がオスマン帝国以外でもヨーロッパ各地で起こります。特に噴出したのが1848-1849年。1848年革命と呼ばれ、ウィーン体制崩壊が加速していきました。
宗教問題
まず当時の聖地エルサレムの管理権について。どういった変遷を辿っていったか関わりのある部分だけ簡単に。
オスマン帝国がエルサレムを支配していたマルムーク朝を滅ぼしイエルサレムを管理下に置くように
対ハプスブルク帝国でフランスとオスマン帝国が同盟を結成した際に、フランスによるイェルサレムの治外法権を認めた
フランスで絶対王政が崩れ、共和政となる
ナポレオンのエジプト遠征で混乱中、オスマン帝国を支援していたロシアが間に入って管理権を委譲させた
ヨーロッパはウィーン体制に移行。フランスは王政復古でブルボン朝が復活
フランスでは王政復古したものの時代遅れの統治で2度の革命が起こり、ナポレオン=ボナパルトの甥ナポレオン3世が権力を掌握した
ナポレオン3世がフランス内でのカトリックの人気を高めるためオスマン帝国に圧力 → 管理権を獲得
こうした経緯があったため、ロシアとフランスは完全に対立。
オスマン帝国とロシアの関係はかなり悪くなっていましたし、先進国であったフランスが完全にオスマン帝国側につく決め手となりました。
なお、フランスはオスマン帝国の最大の債権国だったりとロシアと対立する他の要素も持ってもいたようです。
イギリス外交の失敗
この時期のイギリスは完全にロシアと敵対していたわけではなく、当時連立政権だったこともあって内部にロシアに同情的な派閥と逆にロシアの拡大姿勢に危機感を抱いていた派閥両方が存在していました。
ロシアの拡大姿勢を危惧していた勢力はイギリスの影響下にあったインドへの航行が地中海の不安定化や中央アジア方面への南下により妨げられかねないと考えていたようです。
そのため、仲介できる大国の立場であっても身動きが取れず、小さな火種のうちに消すことが出来ませんでした。
クリミア戦争の開戦(1853-1856年)
以上のような背景が重なりながらも交渉は続けていたのですが、結局両者妥協できずに失敗に終わります。
1853年7月にロシアがオスマン帝国で自治権を持っていたモルダヴィアやワルキア(現在のモルドバ、ルーマニアの一部)へ進軍しました。どちらも多数派が正教会の一派を信仰していたため「解放」目的の進軍であり、宣戦布告は行われないまま軍は進められています。
オスマン帝国は再三にわたって撤退勧告を促すもロシアは行わなかったことから同年10月にオスマン帝国が攻撃を仕掛け開戦したのです。
なお、このモルダヴィアやワルキアといった地域はオーストリアのすぐ側にある上にオーストリアは国内にスラブ系民族を抱えていたため、クリミア戦争以前は友好国だったオーストリアとロシアの関係が悪化しています。
ギリシア義勇兵たちと英仏の参戦
バルカン半島では以前からギリシア以外にもオスマン帝国の支配下に置かれていた独立したい勢力が複数存在していました。
ロシアとオスマン帝国が直接対決している間に、そういった勢力がロシアから援助を受けながら叛乱を起こします。この叛乱にギリシア義勇兵が北上して参戦。オスマン帝国は挟み撃ちされることに。
なお、1853年7月にロシアが進軍した時点でイギリスはロシアへの警戒心の方が強くなっていましたからオスマン帝国側を支援することに決めています。
そのため、英仏にとってもこのオスマン帝国の状況は非常にまずかった。ギリシアからの義勇兵を止めるようギリシャに撤退を英仏は求めますが、独立を果たしたばかりのギリシャは政府が弱く義勇兵たちを止めることが出来ません。
そこでフランスはギリシャ義勇兵の武器を積んでいた輸送船を、イギリスはアテネの港湾都市を封鎖してオスマン帝国へ攻め込めないようにしました。
こうしてオスマン帝国はロシアに攻め込まれ気味だったのを何とか元の状態にまで押し戻し、膠着状態に持ち込みます。この時点で英仏ともに支援はしてもこれ以上深入りするつもりはなかったのですが...
ロシア軍による港湾施設まで徹底的に破壊されたシノープの海戦により世論が一変。各国メディアが『シノープの虐殺』と報道したことにより一気に強硬論へ傾いたのです。英仏は共に参戦することになりました。
なお、この英仏の要請によりイタリアにあるサルディーニャ王国も戦争後半になって参戦しています。当時はイタリア半島の統一を目指す動きが活発化しており、
- 国際的な地位の向上
- イタリア統一への支援のために英仏に接近したい
- そもそも地中海が荒れるのは困る
こういった意図があったようです。
終戦へ
英仏の参戦により船(建艦技術)・武器弾薬(飛距離が違う)・輸送手段どれをとってもロシアは遅れているのが明らかになった一方で、英仏両国も現地を知らずフランスでは戦う前に嵐により艦隊を失うなど重大なミスを犯しており戦いは長期化していました。
中でも戦闘の激しかった地域はクリミア半島にあるロシアの「セヴァストポリ要塞」を巡る攻防戦です。
ロシア黒海艦隊の根拠地であり、約一年に渡って戦って最終的には英仏土連合軍が勝利し、黒海艦隊が無力化。連合軍が国海の制海権を獲得しています。
ただしロシア側もタダでは転ばず、黒海東側の「カルス要塞」を落として連合軍に痛手を負わせ、クリミア戦争完敗だけは避けました。
なお、この時期には戦死者より病死者の方が多くなっており、イギリスもオスマン帝国も戦費が嵩んで財政破綻状態だったことから、次第に同盟国として参加した英仏では厭戦ムードが漂い始めるようになっています。
両陣営ともに経済もマズい、戦死者や病死者が多いことなどから1856年にオーストリアとプロイセンの呼びかけにより講和交渉が始まったのです。
パリ条約(1856年)
色んな年代にパリ条約は結ばれているのでややこしいですが、今回のパリ条約を締約した国は戦争に参加したロシア・オスマン帝国・イギリス・フランス・サルディーニャ王国、両陣営の仲介役を担ったオーストリアとプロイセンの7カ国です。
この条約では、オスマン帝国の方が実質勝利状態で幕を閉じたため
- オスマン帝国の領土保全
- ボスポラス海峡とダーダネルス海峡ではオスマン帝国以外の軍艦が通過できないことの再確認
- 黒海の非武装化
- ドナウ川の自由航行(ドナウ川沿岸の国々が常設委員会を設置・監督)
といった項目が盛り込まれています。
独立を目指して戦ったモルダヴィアやワルキアなどのバルカン諸国は、領地の大きさは変われどもロシアの南下政策の緩衝地帯として自治権を確認するにとどまりました(オスマン帝国以外の欧州諸国の保証付きとは言え、ロシア軍政が敷かれる前の状況と変わっていないってことですね...)。
条約締結による影響とは?
1848年以降怪しくなっていたウィーン体制を完全に崩壊させたのが、このパリ条約です。
ウィーン体制下でロシアのアレクサンドル1世が主導してキリスト教的な正義や隣人愛を元に結んだ神聖同盟(ロシア・オーストリア・プロイセン)も消滅しています。
パリ条約の締結でバルカン半島進出を絶たれたロシア以外で最も影響を受けた国はオーストリアでした。
支配下にあったハンガリーの独立運動で、ロシアはオーストリアを支援していたのに今回の件で否定的立場を取ったため関係をかなり悪くさせています。
その影響は両国の関係だけにとどまりません。ロシアとの関係悪化によりハンガリー独立運動の件で支援を期待できなくなったオーストリアはドイツ連邦内での地位を下げ、プロイセンの台頭を後押ししています。
※フランス革命で神聖ローマ帝国は瓦解し、オーストリアを盟主としたドイツの35の領邦(プロイセン王国含む)と4つの帝国都市の連合体をドイツ連邦と呼んでいました。
同時に、ウィーン体制を主導するくらい力を持っていたオーストリアはヨーロッパでの影響力も徐々に失うことに。
こうしてパリ条約を経て『ヨーロッパの協調』を目指したウィーン体制が完全に終了したことで、各国が自国の国益のみを追求する帝国主義に走るようになったのです。