江戸の大名屋敷は、明治維新後にどうなったのか??
明治政府発足のよって江戸が『東京』と名を変えて天皇のおひざ元に生まれ変わりましたが、政府機能が移されたばかりの東京は荒れ野原が目立っていました。 幕府時代に参勤交代で江戸に詰めていた大名たちがこぞって地元に帰り、江戸の人口が減り続けたのを背景に極度の経済不況に陥ったのです。
明治に入るとそんな大名屋敷の大半は取り上げられ、政府に仕える意思のない幕臣の屋敷も没収されて管理が行き届かなくなった結果、放置され荒れ果てていきました。江戸時代に活気のあった街は明治になり一転し、全く活気のない場所に代わっていたと言われています。こうした事実はほとんどの人は知らされていない思います。
そこで今回は、明治政府発足直後の東京の状況を踏まえながら、残された大名屋敷について書いてみたいと思います。
明治維新後の大名屋敷の行方
先述した通り、明治維新後の江戸の大名屋敷の大半は新政府に没収されました。
徳川宗家は存続を許され駿府・静岡70万石に転封されています。この時に追放された幕臣や旗本は静岡に入り、荒れ地を開墾して茶畑を作り静岡がお茶の名産地となったそうです。
当時の江戸の面積のうち約7割が武家屋敷が占めておりそのうちの半分が新政府が取得。よって新政府は江戸の約35%になる広大な土地の地主になり、土地資産の価値は計り知れないと思われます。
しかし、この土地の有効利用の方法が分からなかった明治政府はとても無駄な使い方をしてしまいました。政府の要職に就いた多くの下級武士出身者たちは、良い屋敷(土地)から順番に私物化し、これまでの貧乏暮らしからあこがれの大名暮らしを始めるようになります。
高級官吏となると数千坪レベルの広大な土地を住居として与えられています。大隈重信などは築地にあった旗本戸川安宅の屋敷約5000坪を下賜され、後に「築地の梁山泊」と俗称される屋敷となったそうです。
大名屋敷を私物化しなかったのは西郷隆盛と板垣退助だけだったと言われています。
それでも土地は有り余り、軍の駐屯地にしたり、政府関係機関の施設として利用もしました。また、三井などの新政府の御用達商人『政商』などにただ同然で江戸の一等地を払い下げています。後に財閥と呼ばれるまでに財を成す背景には、このような明治政府との癒着がありました。
配っても余った土地は畑や牧場に
このように土地をひたすら配っても、ほとんどの武家屋敷の貰い手が決まらず、荒れ地問題も出てきました。この荒れ地が首都・東京の中心地なのは信じられませんね。今の価値だと都道府県予算をつぎ込んでも手に入れることが難しいくらいになっていることでしょう。
当時から地方の有力者や豪商たちがこの荒れ地に目をつけた人もいたようですが、政府の閣僚たち(元下級武士たち)には、土地が価値を生むと言った商人的な発想を持ち合わせていませんでした。
そして、明治2年に土地の有効利用するためにはじめられたのが明治政府による 「桑茶政策」と呼ばれるもの。『空いている土地を農地にしてしまおう』というのです。
当時の日本は、貿易品としてシルク(絹)とお茶を輸出していました。
荒れ果てた武家屋敷跡に、蚕のえさとなる桑かお茶を生産する農家に貸し与えることにして希望者を募りました。よりによって文明開化をうたって新政府を作った閣僚たちは、東京のど真ん中で都市開発を行わずに畑を作り始めてしまったのです。
明治政府の期待をよそに桑茶政策に応募した農家は少なく、唯一手を上げた農家からの収穫もほとんど上げられずに、都心部の空き地はますます荒れてしまう事態に…
一部では牛乳の需要増加を見据えて殖産興業の一環として牧場にした土地もありますが、桑茶政策の失敗により荒廃した土地が減りませんでした。
そして、2年後に早々と桑茶政策は廃止されてしまいます。
その後、明治4年には廃藩置県が断行。各藩主の藩主たちが地元を離れ東京に住むことが義務付けされた事によって、残された大名屋敷は少し有効活用されることになりました。
首都・東京の地価が大暴落
当然ながら、上記のような的外れな政策に加えて当時の経済不況と土地の需要と供給のバランスが崩れた東京では地価が大暴落してしまいます。
江戸幕府時代、各藩が江戸に参勤交代していたので大江戸八百八町は繁栄していましたが、完全に東京は空虚な土地となっていました。一時期、『土一升、金一升※』と言われるほど栄えた江戸の土地が買い手もつかない状況になっていたのです。
当時は土蔵門と構え付きの土地が一坪2銭5厘。現在の紙幣価値にすると一坪200円~300円くらいでそれでも高いと言われたくらい地価が下がっています。
廃藩置県により再び土一升・金一升に
廃藩置県が行われてしばらく経過すると、ようやく社会が安定し東京の人口が増加傾向に転じます。その結果、土地の需要が供給に追い付かなくなり地価が上昇。三井などの政商たちは厄介者の土地を押し付けられていましたが、地価上昇に伴い政府に対して強く払い下げを要求するようになります。
こうして、日本橋に象徴される東京の一等地の地価は再び「土一升、金一升」の状態に戻り以前の活気が取り戻しつつあったのでした。
その後の大名屋敷跡
廃藩置県後に元大名はそのまま華族となり東京に移住して、そのまま大名屋敷が使われることになりました。しかし、大名屋敷には上・中・下の3つの屋敷を江戸に持っており、皇居(江戸城)に近い上屋敷は明治政府に接収され、官庁や軍の施設等に変わっています。
売却された屋敷も多数あり、明治後期になると財政難から売却して移転する華族もふえています。
例えば、山県有朋は旧久留里藩下屋敷を購入し、今ではホテルとして有名な『椿山荘』を建築して住まいとしてましたし、明治期に実業家として成功した岩崎弥太郎が購入した屋敷は、明治初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となった元・越後高田藩の中屋敷を明治11年に牧野家から購入しています。
また、福沢諭吉が創設した『慶應義塾』が置かれた三田校舎は旧島原藩屋敷でした。
現在の官庁が置かれている霞が関辺りは黒田、浅野、上杉、真田と言った外様大名の広大な屋敷が建ち並び、これ等を接収して官庁を集中的に建設しています。
- 尾張徳川家市谷上屋敷→陸軍士官学校→防衛省
- 紀州徳川家赤坂上屋敷→皇室赤坂御用地→東宮御所・迎賓館等
- 水戸徳川家小石川上屋敷→陸軍用地→小石川後楽園
- 加賀藩前田家上屋敷→文部省用地→東大本郷キャンパス
- 彦根藩井伊家上屋敷→陸軍用地→憲政記念館ほか
- 福岡藩黒田家霞ヶ関上屋敷→外務省→外務省
- 広島藩浅野家霞ヶ関上屋敷→陸軍用地→合同庁舎・警察庁ほか
- 米沢藩上杉家桜田上屋敷→法務省→法務省