フェルナンド2世がフランスと対立した理由とは?【スペイン史】
カトリック両王の治世の補足記事です。
カスティーリャ=アラゴン連合王国(以後、スペインと呼ぶ)が、レコンキスタ終了後すぐにフランス戦へ移行した理由について探っていきます。
過去に書いた第一次イタリア戦争の記事にもスペインとフランスが不仲になった理由の一部が書かれていますが、今回はスペインに焦点を当てているので別の理由も紹介していこうと思います。
スペインとフランス、不仲の理由<その1>
まずは何と言ってもナポリ王位を巡る戦いです。これがイタリア戦争の記事でも触れている第一の理由です。
※かなり簡易的に描いてます
元々、上の地図のナポリ王国とシチリア王国は一つの国・シチリア王国と呼ばれる国でした(範囲とか結構適当なので位置関係だけ参考にしてください)。
そのシチリア王国に隣接するのが教皇領です。この教皇領を治めるローマ教皇とズブズブだったのが神聖ローマ帝国。ですが、やがて利害が合わなくなっていきます。
教皇領を圧迫するために神ロ皇帝がシチリア王女と結婚してシチリア王国の王位に就きますが、挟撃を嫌がったローマ教会もやられてばかりいられません。
神聖ローマ帝国やり手の皇帝フリードリヒ2世(←シュタウフェン朝の皇帝)の死後、教皇はフランス王の弟にシチリア王位を持ちかけます。
最初は断られたけど…
↑フリードリヒ2世、コンラート4世、コッラディーノ、マンフレーディがシチリア王
マンフレーディが甥が死んだと誤報を受け即位したものの、後に誤報と知っても王位を返さず簒奪したため、フランス王の弟が実際の行動に移しシチリア王国を支配したのでした。
が、彼の統治は評判が悪くシチリア島から失脚。ナポリ方面に亡命し、ナポリのみ統治しました。そのため、実質的に支配地域はナポリのみでしたが「シチリア王」を名乗り続けています。
※フリードリヒ2世については下の記事に詳細を書いています。
一方、追い出した方のシチリア島では、神聖ローマ帝国の系統の前国王マンフレーディの娘婿・アラゴン王を引っ張り出して「シチリア王」とさせました。
このややこしい状態を治めたのが、フェルナンド2世の伯父・アルフォンソ5世でした。ですが、彼には庶子フェルナンド1世しかいません。ローマ教皇は庶子による支配に反対しています。
※ナポリ王、フェルナンド1世はアラゴン王アルフォンソ5世の非嫡出子。
ヴァロワ=アンジュー家はフランス王家傍流の家柄。
ところが、東に目をやるとアナトリア半島にオスマン帝国という強い国が誕生していたこともあって目をつぶらざるを得ず、庶子のフェルナンド1世が王位に就くことになりました。オスマン帝国はフェルナンド2世へ異端審問の権限を与える契機になった国ですね。
ところが、次代の教皇がフェルナンド2世と激しく対立。「やっぱり庶子は・・・」となってしまい、フランス国王にナポリ王位を勧めたのでした。
スペインとフランス、不仲な理由<その2>
スペインとフランスの間にはナバラ王国という国がありました。元々は13世紀前半頃から200年程フランスの政治圏に傾きがちな国だったのですが...
ナバラ王位についていたフランス王家の傍流が途絶えると、最期のフランス系の国王の娘でナバラ女王となったブランカ1世がフェルナンド2世の父フアン2世の王妃(フェルナンド2世にとっては継母に当たる)となり、共同で統治。アラゴン王国との距離が一気に近付きます。
その女王・ブランカ1世が1441年で亡くなる際、息子のカルロスが王位に就くよう遺言を残しますが、夫のフアン2世は王位を譲らず内戦(1451年)に発展。
カルロスが不利になっていくと、伯父のアルフォンソ5世に父との仲を仲介するよう頼むのですが、頼みの綱の伯父が死亡。父との仲は修復せず、カルロスの同母妹レオノールが完全に王位継承者となりました。
その後、カルロスも病死すると、完全に元王妃の子供の方にナバラ王位を継がせる方向に。これに内心不満を覚えていたのがフアン2世の王妃で、フェルナンド2世の母です。「ナバラ王位も息子に渡したい」と考えていたようです。
フェルナンド2世の方も「ナバラ王位を手に入れたい」ということで、フアン2世の生前から異母姉が摂政となっていたナバラ王国の内政に介入。父と異母姉に対して強気な態度を崩しませんでした。
やがて、そのフアン2世が亡くなり、レオノールが単独で王位に立つと即位後15日で女王が死亡。彼女の長男の息子フランシスコ1世がナバラ王に即位します。この新しいナバラ王の母親はフランス王家の王女にあたる女性でした。
フランシスコ1世は若くして亡くなったため、妹カタリナが即位。2人とも若年のため、母のマドレーヌ=ド=フランスが摂政を務めています。
こうして分かりやすくフランスに近付いたナバラ王国。自国の安全保障上の理由からフェルナンド2世は併合を企てていきました。当然、フランスはこの動きを傍観する訳にはいかなかったようです。
以上のような経緯でフランスとスペインは対立していきました。
が、フェルナンド2世は清濁併せ持つやり手の政治家。必要とあれば対立相手のフランスでも和睦も結んだり裏切ったりしながら、その基盤を作っていったのでした。