曹操の台頭とそれを支えた武将たち
正史の【三国志】で曹操は、生まれから書かれています。
【太祖武皇帝は、沛国譙県の生まれ】と書きだされています。しかし、この時代は両親が沛国譙県生まれであれば、本人が別の地域で生まれてもそのまま出身地となってしまうので、実際の所はわかりません。
冷酷な性格で知られていますが、お酒の席では陽気で客をもてなしながら大笑いをしていたそうです。酔っぱらって食器に頭を突っ込み冠をべとべとにしたと言うのが文献にも書かれています。
今回は、曹操の出生と袁紹との対立までを書いて行きたいと思います。
宦官の養子という事で何かと不便を強いられた
とりあえず、曹家は高祖劉邦を早くから助け、漢の建国に大きな功績があった名宰相・曹参の子孫だという事になっています。
ところが、曹操の実父が宦官の養子という事で、さらに出生事情が複雑化しています。
曹操の義祖父・曹騰は、十常時・大長秋と言う宦官としては、最高の地位に上り詰めているのですが、宦官にならなければ要職に就けなかったという事は、曹家自体が相当落ちぶれていた証拠でもあります。
後に曹操は、名文家・陳琳に【贅閹の遺醜】=【玉抜き野郎のクソ息子】と自分の祖父の悪口を言われています。
幼少期から頭の回転が良くずるがしこいことから【阿瞞】=【ずる賢い】と呼ばれていました。子供のころから、鷹や犬を使った狩りが好きで、遊んでばかりいたようです。後漢時代に政府で出世しようものなら、品行方正で徹底的に行儀よくしなければ絶対に評価される事はありませんでした。
それでも推挙されたのはやはり、父親が政府の高官になっていたおかげでしょう。
やんちゃ坊主の曹操でしたが、仕官してからは宦官の横暴を抑えたり、不正を暴いたりとその有能さを発揮するのですが、すでに死に体の後漢政府を変えるだけの効果は得られませんでした。
そんな中、黄巾の乱に従軍するのですが、天下を狙えるようなチャンスはこの時点では、地位も名誉も持ち合わせていませんでした。
曹操も若いころはきちんと先生に教わっていた
当時、学問と言えば儒教なのですが、勉強する場所と言うのは二通りありました。
一つは盧植のような大学者が個人的に教える事。二つ目は、中央政府の高級官僚や地方の豪族の弟子が教える【太学】と呼ばれる、現代の国立大学で学ぶことでした。
曹操は高官の息子だからもちろん後者で学んだのですが、こうした太学では学問を学ぶ以外に、人脈作りを行う大切な場所でもありました。
太学では、全国から若い官僚予備軍や学者の卵たちが集まります。こうした人たちと早い段階からお付き合いして、自分の人脈を作りコネをつけたりするのが、就職後の世渡りに大きな影響を及ぼすのです。
こうした場で、一緒に酒を酌み交わしたり、討論をしたりと自分を認めさせて名を高めることが必要だったのです。
また、すでに名声の高い人物や学者と出会えることも大きなメリットで、曹操は最初に橋玄から評価をされたのですが、まだ名声がないことを心配されて許劭と言う人物を紹介されました。
この許劭と言う人物は、人物批評が有名で彼に批評されることが世間の定評となるほどだったと言います。そこで曹操は、自分はどのような人間だろうか?と質問をして、【治世の能臣、乱世の奸雄】と、その本質を見抜かれています。
曹操の人心掌握術
曹操は黄巾の乱が起きた時、騎兵隊の隊長として洛陽の東南の川で黄巾賊の討伐にあたり、その功績によって済南国の相に任命されました。
後漢における【国】と言うのは郡と同じくらいの規模ですが、郡は中央から任命された太守が治めているのに対し、国は皇帝一族や功労の大きかった重臣が名目上の領主となっていることから、ほぼ郡の太守と同格の地方長官でした。
済南国を治める曹操は、そこで汚職が横行しているのを目の当たりにしました。
そこで曹操は、有力者を後ろ盾にしていた官僚を8割もクビにして地方政府の大掃除を行いました。そして、黄巾の乱後も流行していた邪教の禁止を掲げました。
その後の曹操の政治手法の基本となったのが【アメとムチ】を使い分けた方法でした。
私的に結びついた官僚勢力を徹底的に排除し、すべての権力を自分に集中します。これは献帝を手中にしてからも、繰り返し行う政治手法でした。
敵は多くなりますが、それをやってのけるのが曹操のすごい所だと言えます。
また、邪教や汚職を禁止する事で、民衆の支持がぐっと引き寄せられます。後漢末期では、民衆や商人はひどい摂取に苦しめられていたのは、黄巾の乱の記事で書きました。
この搾取が、国家のよるものと言うより、宦官や豪族たちの搾取がひどかったので、これらを退治する事が世間へのアピールにつながったのです。曹操はこうしたアメとムチを使い分けて権力の座へと昇っていくのでした。
曹操を支えた有能な文官・参謀たち
敵の武将であっても有能であれば積極的に登用していたのは曹操でした。
曹操は以下の文官の中で随一の人物と言えば荀彧でしょう。
袁紹のもとを去り曹操の元へやってきた時に【我が張良※が来た】と喜んだ程の人材であったようです。※張良は高祖劉邦の最高の参謀の事
荀彧のすごい所は、文官ながらの頭の中だけの策士だけではなく、曹操が戦いに出ている間の留守を引き受けて本拠地を守り抜くと言う、軍事的な実務能力が高かった事にあります。
実際に、荀彧は呂布との戦いや袁紹の戦いで、決定的なポイントで助言をしています。その特徴は、現実を直視する徹底的なリアリズムにあります。そういう意味では、荀彧は曹操の忠実な分身だったともいえるでしょう。
次に程昱で、彼もまた文官のくせに戦に強く、若い時に黄巾に呼応した反乱軍を自分の里から撃退したと言う武勇伝があるそうです。曹操配下時には、荀彧とお留守番をする機会が多かったようですが、彼もまたジャストタイミングで冷静な判断ができる参謀でした。
もう一人外せないのが郭嘉で、荀彧と程昱とは違い参謀らしく現実的な対策よりも、先を見越した長期的な戦略の立案や予測が出来ました。赤壁の戦いの時にはすでに郭嘉は死んでいましたが、曹操自身も赤壁は郭嘉さえいてくれれば…と嘆いていました。
他にも、荀彧の甥・荀攸や賈詡のような軍師、華歆、鍾繇と言った有能な行政官が次々と曹操陣営に加わっています。
こうした多くの有能文官が集まった理由として、潁川に曹操の名が知れ渡った事が大きいと言われています。潁川は、洛陽の東南にある都市で有能な官僚や文化人が多く輩出していました。
荀彧や荀攸の一族もこうした潁川出身の知識階級の人で、荀彧から郭嘉や鐘繇が推挙され歴史に残らなかった有能な文官までもこうした人脈の元曹操陣営に加わっていったのでした。
こうした、有能な文官や参謀を得たおかげで、歴史が進めば進むほど曹操軍は兵士や補給不足に悩ませることが無くなりいつでも戦争ができる体制が出来上がります。それも優秀な行政官によって領土の統治や生産の維持がスムーズに行われたからだとされています。
曹操一族の有能な武将・夏侯一族
曹操の下の世代は正史にも書かれていますが、兄弟や上の世代の事は父親以外わかっていません。そのため、一族の武将と言っても正直ハッキリしません。
曹操の父親は、夏侯氏一族から曹氏に養子へ入ったと言う記録があり、曹一族の武将もハッキリ正史に書かれています。
夏侯惇は、曹操が挙兵した時からの人物で、ずっと行動を共にしており、信頼度もナンバーワンでした。夏侯淵は、その従弟でやはり旗揚げ当初の武将として曹操と共に行動をしています。
また、曹仁・曹洪は、曹操の従弟であり、彼らもまた武将として大変優秀で当初メンバーです。
もちろん曹操の天才的な軍略は言うまでもありませんが、一族にも多くの優秀な武将がいたことは、群雄たちの中でも群を抜いていました。乱世の時代、どんなに優秀な部下でも初戦他人は他人。いつ裏切られるか分かったものではありません。
その点、同じ一族のメンバーであるという事は、この時代において同じ運命共同体に属している事でした。
こうした連帯を守った事が、同じ一族でありながら反目を繰り返した袁紹と袁術達・袁氏と違い天下取りへの大切な布石として将来に生きてくるのでした。
曹操軍を支えた猛将たち
挙兵以来の一族武将たちだけではなく、曹操陣営には勇猛な武将たちもいました。
旗揚げ当初は、曹操自ら陣頭に立ち機会が多かったので、どうしても身辺を守るボディーガードが必須でした。
そこに採用されたのが典韋でした。
呂布との戦い曹操自身が負傷するほど苦戦する中、典韋は突撃隊を率いて大活躍します。それからはずっと曹操の護衛にあたりますが、張繍の謀反により最後は曹操の身代わりとなり壮絶な戦死を遂げています。
典韋の後を継いだのが許著で、彼もまた曹操のそばで危ない場面を何度も救っています。この二人が居なければ曹操すら命がないほど旗揚げ当初は厳しかったようです。
こうしたピンチを切り抜けるたびに曹操陣営には多くの勇敢な武将たちが集まってきました。まずは、楊奉の配下から徐晃を呂布からは張遼、袁紹の元から張郃と言った曹操を軍事面で支えた将軍たちが揃っていきました。
曹操のすごい所は、以前は敵の部下であったのにもかかわらず、優れた武将であることを知るとすぐに重要な作戦の一部方面部隊を任せたりしている事でした。一説には、人物の能力や忠誠心の確認のためだとされているが、これを実行するには相当の覚悟が必要となるのは言うまでもありません。
後に曹操が前線に出なくなってからは、一族武将を中心に中途採用組が各地で戦争を行い、曹操軍団を支えていきました。
曹操の主力軍団【青洲兵】
長安で董卓が暗殺された頃、曹操は親交を結んでいた鮑信に頼まれて青洲の黄巾賊【百万人】と戦っていました。その戦いは、混戦を極め依頼主の鮑信は、曹操を守って戦死をするが、辛くも勝つことが出来ました。
戦いの後、曹操に黄巾賊から手紙が届けられました。
昔、済南にあなたがいた時に邪教の祭壇を破壊させましたが、それは我々の教えにもかなっています……(中略)……あなたの力で漢を存続させる事は不可能です……
この文章をみると、カルト集団の黄巾賊が邪教を禁止した事を称え、曹操の機嫌を取っているかのように見えます。よく考えると、黄巾賊も元々は困窮した民衆です。これまで曹操のとった政策は、民衆レベルでは広く受け入れられている証拠であると言えます。
曹操は黄巾賊たちを上手に降伏させて、兵士三十万とそれ以外の男女百万人以上を収容しました。百数十万人と言えば小さな一つの州の人口くらいです。そして、その中から精鋭の兵士を厳選し【青洲兵】と名づけて、その後の曹操軍の中心兵力となり強敵との戦いに投入しました。
ただ、曹操が死去すると、生き残っていた青洲兵たちが申し出て故郷に帰ってしまったと言う話があり、青洲兵たちは降伏した時に曹操と何らかの密約があったのかもしれません。
こうして青洲兵を軍勢に編入してから曹操軍は飛躍的に強くなりました。
もともと宗教的な結束が出来上がっており、その辺の流賊達にはない連帯感があり、平氏としての素質も青洲兵は優れていました。現在も、青洲のあった山東出身の文言は、背が高くて体格が良く兵隊向きであるそうです。
曹操の勢力拡大と献帝
反董卓連合が空中分解したあと、袁紹は劉表と袁術は公孫瓚と同盟を結びました。
そのほかの群雄は、勢力の拡大をしながら袁紹・袁術の二大勢力とくっ付いたり離れたりを繰り返し、中国大陸でせめぎあってました。
当時、群雄名の中でも弱小勢力だった曹操は、洛陽に近い兗州にやっと本拠地を置き、投降した青洲兵を受け入れて軍備拡大をしました。曹操が本格的に群雄の仲間入りしたのは、まさしくこの時期でした。
一応、曹操は袁紹と劉表側について袁術を攻め立てています。
袁術は、以前劉表との戦いで孫堅を失っており、はるか南へ逃げ延びなければならなかったようです。ところが、徐州を支配していた袁術派の陶謙に自分の父が殺されてしまう事件が起こると、陶謙を攻撃し徐州一帯をメチャクチャにします。
この時代、親が殺されるという事は、とても耐えがたいことで、それに対して報復をしなければ自分の評判も落とすことになります。
やがて陶謙が死去すると、劉備と呂布に支配が取って代わりますが、曹操はかれらも撃破しています。
そして、曹操に人生のターニングポイントが訪れます。
それは、董卓死後に混乱を極めた長安から脱出した【献帝】が曹操の下に転がり込んできたのでした。とは言うものの、献帝を引き受けるという事は、後漢の政府機構も一緒に引き受けることになるので、手放しに喜んでもいられません。
事実、それが面倒で袁術は皇帝を引き取りませんでした。
しかし、皇帝を担ぐことで曹操の軍勢が【官軍】という事になります。実利は無いが、天下に号令する大義名分は立ち、それが後になって効いてくることになります。
この頃に曹操は【屯田】と呼ばれる画期的な生産体制を始めます。
戦乱によって主のいなくなった土地を公有として、流民となった農民たちに貸し与えて、その収穫の何割かを徴収すると言う制度で、この政策のおかげで、常に付きまとっていた軍隊の食糧調達の目途が立つことになりました。
こうして曹操は、中国全土の制圧に向けて、その地盤を固めていくのでした。
そして、中原の覇権を争い袁紹と刃を交えることになります。