あの天神様を大宰府送りにした左大臣・藤原時平は切れ者だった!?
宇多天皇に可愛がられ、醍醐天皇時代には右大臣に出世した菅原道真。
学問の神様として現在祀られていますが、その晩年は、ライバルに謀反の噂を流され、太宰府に左遷され非業の死をとげました。
その後、各地で疫病が流行ったり、朝廷に落雷が落ちたりと不吉なことが続いたので「これは無実の罪で死んだ道真の祟り」となり菅原道真公は、神としてまつられることになりました。
当時の醍醐天皇に噂をばらまいたのが今回の主人公・藤原時平です。
藤原時平と菅原道真
藤原北家の摂関家・関白太政大臣の藤原基経の長男として時平は生まれました。
当時の基経はものすごい権力を持っていたので、生まれながらにして出世が約束された家に生まれた事になります。しかし、宇多天皇が即位した時に基経と間で起こった政治紛争【阿衡事件】が起こると、両者に深い溝が出来てしまいます。
藤原基経が死去すると、宇多天皇は藤原家はずしを展開し、嫡男・時平を参議にはしますが、同時に藤原氏以外の有能な人材も登用しました。その中に、菅原道真がいました。
藤原時平は当時、東西随一の秀才と呼ばれ、父・基経の威光も加わって異例の出世を果たしています。21歳で参議になり、23歳で中納言、27歳で大納言、氏長者、29歳で左大臣となっています。もっとも、父は彼が21歳のとき亡くなっている事から、彼自身の優れた才能、実力が評価された面も当然あったのでしょう。
家柄の割には、菅原道真の出世の早さは異常で、蔵人頭となって政界にデビューし、その翌々年、参議にまで出世しています。これは道真自身が有能だった事もあるが宇多天皇のバランスを欠いた“えこひいき”だったのでしょう。
しかし、年齢を見ると49歳で参議、51歳で中納言、55歳で右大臣になった道真とくらべるとやはり時平方に軍配が上がるのではないかのでしょうか?
藤原氏はずしの政策を打ち出したものの、時平が有能であったため897年に宇多天皇から醍醐天皇に譲位した時には「そばにおいてその指導に従え」と言ったようです。しかし、前政権の側近・菅原道真も宇多上皇の強い勧めもあり、時平は左大臣、道真は右大臣として醍醐天皇治世を任されることになりました。
形式上、太政官の長として左大臣の任に付いた時平ですが、政務に関する権限は道真共に同じくらいだっとされています。
菅原道真を追放する【昌泰の変】がおこる
醍醐天皇治世でも宇多上皇は、菅原道真を始めとする側近たちを新政権に配置し政治を主導しようとしていました。こうなると面白くないのが藤原時平(醍醐天皇も?)で、何とか菅原道真を追いだそうと画策をします。
なんとか道真を追放しようと時平が取った作戦は「道真が謀反を(娘婿を皇太弟にしようと)企んでいる。」とデッチ上げる事でした。
菅原道真の謀反の噂が流れ始めると、醍醐天皇・藤原時平や反上皇派の貴族たちが同調し、天皇は突如、宣言を出し道真を大宰員外帥に降格させるのでした。同じくして、宇多上皇派だった源善や南家の藤原菅根らが相次いで左遷されることになり、宇多上皇と醍醐天皇の政治闘争は、醍醐天皇と藤原時平の勝利に終わりました。
このでっち上げから始まった【昌泰の変】は、無実の罪をライバルに擦り付け叩き落した悪い人としてのイメージを定着してしまった藤原時平は、歌舞伎などの演目でもかなり悪く演じられています。
しかし、【菅原道真も完全に白ではなかった】【醍醐天皇が宇多上皇の権力を削ぐために行った処遇】といった見解もあるので、時平が完全に悪だとは言い切れません。
その後の時平は、意欲的に政治改革に着手し、902年に最初の荘園整理令を出し、日本市場最後の班田を実行しました。この醍醐天皇の治世は延喜の治と呼ばれています。
しかし、909年に時平は39歳で死去。『扶桑略記』では道真の怨霊によるものとされ、もっぱらその見解が取られるようになりました。
藤原時平の逸話・人物像
醍醐天皇と時平の仲は実際には良好で、信頼も厚かったようです。
天皇が貴族の贅沢を諫めようとした折には、時平が派手な服で参内して天皇の叱りを受けて謹慎すると言う芝居を打ち、貴族の贅沢を治めると言う逸話が残っています。
晩年の荘園整理令などの政治改革も行い、醍醐天皇親政を助けていることから有能な人物でしたが、女好きで叔父の美人妻を寝取ったそうです。また、笑い上戸であったようで、書記官がオナラをしたことがツボに入り仕事が出来なかったと言うエピーソドが記されています。
それでも学問の神様を追放したのがいけなかったのか、活躍した期間が短く早世してしまい、政治の実権は弟・忠平に移り以降、その系統が力をつけていくことになりました。一方で時平の系統は、中下級以下の官位に甘んじる家格になり歴史に埋もれていくことになりました。