麒麟がくる

織田信勝(信行)は兄・信長より出来が良かったのか??

 

織田信長が尾張を統一するまで、大きな敵だったのは他の大名家ではなく身内でした。実際に、家督を継いでから平定までに何度も身内に裏切られ、尾張を手中に収めるのに13年の歳月がかかってしまいました。

身内の裏切りの中で、一番厄介だったのが弟の織田信勝(信行)との家督争いです。

同じ血を分けた兄弟であり、その実の弟を手にかけた事で、信長のイメージを冷徹化させる要因と思いますが、一方的に信長が悪かったのでしょうか?

麒麟がくるでも、帰蝶が織田家に嫁ぎ、織田信勝が登場したところで今回はその生涯を追ってみたいと思います。

 

14歳頃から史料に出始める信勝

 

織田信勝は、信長の弟として、父・信秀と土田御前との間に生まれました。

1536年生まれとされており、信長の2個下と言われています。もう一人の、弟・秀孝が1541年生まれと考えると、1535~1540年の間で間違いないと考えられています。

信長の血筋と言う事で、史料が豊富と思いきや幼少期の記録についてはあまり残っておらず、1549年頃の14歳の時に歴史の舞台に上がってきます。

 

当時は、信秀が居城・末森城に親子で同居していました。

1551年には、織田信勝の名で熱田神宮寺座主に対して武家が発行する花押付きの文書を発給しており、これが初めての公的な仕事だったとされています。

この後しばらくは、信秀の仕事を引き継ぐ形で終わりの統治に関わっていくことになります。

 

信長と信勝の関係が曖昧のまま信秀が死亡

 

この時、嫡男・信長は那古耶城を譲り受けて半分独立しておりました。

一方で、織田信勝は信秀と同じ末森城に住み、仕事を引き継いでいることから、家臣たちの間でも『織田家の当主はいずれ信勝様になる』『あのうつけでは織田家は継がれまい』と言う空気だったようです。

そんな状況のまま、織田信秀は、嫡男を信長としながらも、信勝の扱いをどうするのかをハッキリとせずに亡くなります。

父・信秀の葬儀に信長が荒くれ者のような格好でやってきて、父の位牌に抹香を投げつけるという乱暴な態度を取った有名なエピソードがありますが、この時信勝は、正装をして行儀よく振る舞ったため、二人の評判の格差はより織田家中で広がりました。

 

父・信秀の死後は、末森城にそのまま信勝が治め、柴田勝家などのお付きの家老たちも引き続き仕えていました。信長の方も宿老・林秀貞が付いていたので、家老の格でいえば兄弟間の差はなかったと言えます。

しかし、この時点では林秀貞信勝派だったので、信長的には不利な状況だったかもしれません。不穏な空気のまま1553年7月までは両者に表立った争いはありませんでした。

 

織田信長との争いが勃発

 

ところが、10月に信勝と信長が別々に判物を発給し始めて、【経済戦争】が始まりました。現段階では、家格や地勢において弱小の織田弾正忠家で、唯一の力の源が【お金】で、それをめぐる争いが兄弟間で始まりました。

 

1553年と言えば、信長の爺である平手政秀が自害し、信長と斎藤道三が初めて会談を行った年でもあります。その会談で、『道三が信長を認めた』と言う事が信勝にとって大きな脅威となりました。

そうした中、信秀の弟・信光が1554年に不慮の事故で亡くなると、織田弾正家の家督争いは、信勝と信長に絞られることになります。

 

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信勝と信長の家督争い

 

織田弾正家の正式な後継者として、信勝はまずイメージ戦略を行います。

君主だった清州織田家でよく使用してた【】の字を使い【達成】と名を改め、父と同じ【弾正忠】の官職も名乗り始めます。

 

一方で信長は、那古耶城で匿っていた斯波義銀を擁立し、尾張守護の囲い込みを行います。

最初のジャブでは、守護職を擁立した信長が一歩前に出た形になりました。

この時点では、守護というより強固な神輿を担いだ信長のほうが有利といえるでしょう。

 

当時の尾張の守護と守護代の関係性については、以前記事にしているのでこちらを参考にしてください。

 

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弟・秀孝の死の対応の違い

 

信勝と信長の違いは弟・秀孝の死の対応にも現れました。

1555年織田秀孝が叔父の信次の家臣に殺害される事件が起こりました。この事件は、誤って殺害されると言う不幸な事故だったのですが、これを聞いた信勝は激高し信次の居城・守山城下を焼き払わせていました。

 

一方の信長は、

俺の弟ともあろう者が、身分をわきまえずに一人で出歩いていたのだから、事故が起きても仕方ない

と言ったそうで、この事件について冷静に判断していたようです。

 

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斎藤義龍の不穏な動きに合わせて信長への裏切りを画策

 

1556年4月に大きな事件が信長に起きました。

信長にとって舅であり最大の協力者でもあった斎藤道三が長良川の戦いで討ち死にしてしまったのです。道三を討ち取った義龍は、尾張上四郡の半守護代・岩倉織田氏などに接近し、信長を追い詰めようと動き始めたのです。

 

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これに合わせて信勝は、8月に信長への反旗を翻し、稲生の戦いが始まります。

柴田勝家や林美作などの信勝派の重臣も出陣していましたが、結果は信長の圧勝で林美作は戦死するなど完全に負けてしまいました。勝利の勢いで、末森城に攻め寄せた信長に対し、信勝は籠城戦に持ち込もうとしますが、母・土田御前の仲介で、信勝が詫びを入れ、柴田勝家や林秀貞とともに赦免されました。

 

稲生の戦いの敗北後は【弾正忠】を自称する事も無くなった信勝ですが、信長に対する敵対色は消える事はなく、独自の判物発給や、斎藤義龍との連絡など、不穏な動きが続きます。

さらに1558年3月、信勝は竜泉寺城の築城を始めました。これは、駿河の今川や信長に対する備えだったとも言われていますが、信長にとっては敵対勢力を連携する危険があった為無視する事は出来ませんでした。

この頃の信勝は、男色相手を寵愛し他の家臣達を軽んじ始めていた為、柴田勝家らの重臣たちは信長に鞍替えをしていたとされています。一本気でまじめな、重臣・柴田勝家をないがしろにし、見放された時点で信勝に勝機はありませんでした。

 

織田信勝の最後

 

信勝の打倒信長は消える事がなく今度は、岩倉城の織田信安に通じ謀反を企てました。

しかし、信勝の重臣・柴田勝家の密告により事態を知った信長が一計を講じました。

信長は仮病を装い清須城に信勝を誘い込み殺害をしたのです。

 

この時、織田信勝(信行)22歳の事でした…

 

その後の信長は、飛躍的に勢力を拡大し、わずか数か月で守護代家の岩倉織田家打倒に成功し、尾張の守護・守護代体制は完全に解体され、信長が尾張を平定する事になりました。

織田信勝の子・坊丸は津田信澄として、織田家の一門の中で信頼は厚く、安土城の築城の際に丹羽長秀と共に奉行として活躍しました。四国攻めの際には大阪城の守備も任されるほどでしたが、明智光秀の娘を正室に迎えていたために、本能寺の変後に謀反を疑われ信長の三男・信孝に討たれてしまいました。

 

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miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。