江戸時代にも介護保険制度があった!?江戸幕府の社会福祉制度
現在、我が国では介護保険制度と言う、要介護状態の人が尊厳を保持して、自立した日常生活を行えるように必要な医療サービスや福祉サービス受けられるよう、認定を受けた人が給付を受けられるようになっています。
江戸時代は、君主を筆頭にその家臣たちが土地を領有して、その土地の民を統治する、封建制度で、統治者たちが権力だけを振り回し農工商たちを苦しめているイメージがします。
朱子学の義務付け
そんな人たちに、公助・互助・自助のような三助の精神のかけらもないように思いますが、当時の統治者である【武士】達は、全て儒教の信奉者でした。この儒教は、徳川家康が、幕府を始めた時から、全ての武士に対して義務付けた国教的な学問でした。
儒学の中でも、幕府は朱子学が推奨されていました。
朱子学では【君、君たちらずとも、臣、臣たれ】と教えられ、主君に徳が無くて。君主の道を尽くさなくても、臣下は臣下として忠節を尽くさなければいけないとされました。
戦国時代の【君、君たらざれば、臣、臣たらず】と言った、主君に徳なく主君らしく振舞わなければ、臣下は忠節を尽くす必要はないと言った、下剋上の思想は江戸時代では通用しなくなりました。
それと同時に、平和な時代の統治者として武士は【仁政※】を求められていました。
江戸時代の三大改革
徳川幕府260年間で、三回の経済の高度成長期、三回の経済危機に見舞われました。
高度成長期は、元禄、明和・安永、文化・文政期で、経済危機は、享保、寛政、天保の改革を行った時期でした。この不況期に、国を挙げての大規模な行政改革が行われました。
最初に行われた改革が、八代将軍・吉宗の行った【享保の改革】で、次に松平定信の【寛政の改革】最後は、幕末期に近い天保期の改革である、水野忠邦の【天保の改革】でした。
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この改革のうち、寛政、天保の改革は、吉宗の行った享保の改革を基にして行われました。吉宗の行った【享保の改革】には、2本の軸となるものがありました。
- 重農主義
- 重商主義
しかし、吉宗は【米将軍】と呼ばれたように、【米価】を安定させることによって、他の物価を統制する事が出来ると考えていました。この吉宗の方針を参考に、松平定信は、重農主義に絞り寛政の改革をし、重商主義を柱として高度成長を促したのが、田沼意次の政策でした。
敬老の日の制定
徳川吉宗は、目安箱を設置して民からの投書によって良いものを政策に生かしました。
その投書の一つに、【小石川養生所の設置】と言う物がありました。これは、江戸市中で、身寄りのない年寄りが病気になった時の事を考えて、公立の福祉施設を作り老人を収容した物でした。
現代でいうと、老人ホーム的なものを、江戸の町奉行・大岡越前守が先頭に立って設置しました。この政策は、明治維新後も引き継がれて、現在の独立行政法人・東京都健康長寿医療センターとして、 高齢者の健康増進と疾病治療、予防を推進しています。
吉宗の孫である松平定信は、儒教への信奉心が強く、常に仁政を志していました。
松平定信は、日本で初めて【敬老の日】と【公立公園の造成】地方自治体(藩)の首長として、自身の白河藩で成功させました。
敬老の日の設定は、自身の拠点である白河城に『70歳以上の老人』を集め、会食をしながら長老たちの意見を聞く日でした。その集まりを【尚歯会】と名付け、【尚歯】と言うのは、【高齢者を敬う】と言う意味だそうです。
人間にはそれぞれ育ちや個性があり、同じように国にも歴史やあり方があります。それを一番よく知っているのが高齢者で、非常の時に過去の経験からどう対処すればよいのかを知っているのも高齢者と定信は考えたようです。
彼らの貴重な経験談を聞きたいと言う謙虚な申し出に高齢者たちは感動して、思い思いに、より良き藩政のための意見を提供したようです。
また、南湖公園と言う日本初の公立公園も作り、城下町市民のレクレーションの場、灌漑用の池、失業者の救済などの役割を果たしました。
江戸の介護保険制度
松平定信の時代になり、老中に就任して展開した寛政の改革の中で、祖父吉宗が行っていた【小石川養生所】の拡充を図りました。しかし、幕府の財政は彼自身が改革を行わなければならないほどひっ迫した状態でした。そこで定信は、江戸の町々に呼びかけ【町会費を節約して、節約分の70%を小石川養生所の運営費に回してもらいたい】と頼みました。
【国民の権利と義務】これは、吉宗が主張していました。
吉宗は日ごろから、江戸の町の火災に対する消防組織が全て武士の管轄であることに疑問を持っていました。【町人自身も自分の生命や財産を自分で守らないのか?】と思っていたようです。
これにより、大岡越前守に命じ、48組の市民消防組織の誕生に繋がっていくのです。
今でもその伝統が続いています。
吉宗の国民の権利と義務の考え方を松平定信も踏襲したのです。
とはいうものの、幕府が財政難だからと言って、市民たちは新しい負担に賛成してくれるだろうか?と定信は不安になるが、江戸の町民は全町会を挙げてこれに賛同したのです。
これにより、幕府の財政難にもかかわらず、小石川養生所の設置・運営のためのお金が町会からドンドンと送られてきたのです。この基金により、収容された老人たちはつつがなく、看護・看病が行われました。
さらに定信は、この基金を拡大して、災害時の市民のための食料と生活用品の保管庫を作りました。天保の改革時には、江戸の総人口の約一年分食いつなぐことが出来るまでに備蓄されたと、当時の保管庫の管理人の遠山金四郎(遠山の金さん)が確認しました。
犯罪者の更生施設【人足寄場】
定信は、江戸湾の島に、軽犯罪者や非行を犯した者たちを収容して社会復帰をしたときに自力更生の道を開けるように、人足寄場と言う施設を作りました。
この施設は、色々な職業技術を教えると同時に、実験作品として市中に売り出し、その売り上げを本人が出所した時に一部を渡していました。残りの一部は、人足寄場の運営に当てていました。
上記のように、江戸時代から介護保険制度のようなものから、刑務所的な施設と運営が存在していた事が分かります。
つまり、先述した【公助・互助・自助】の三助方式が展開されていたのです。その基になったのが、朱子学の【仁政】の教えでした。
しかし、松平定信は尊号事件をキッカケに失脚してしまいます。
老中引退後は、白河に戻り寛政の改革の経験を糧に藩政に専念しました。白河藩は山間部にあり実収入が少なく慢性的な財政難でしたが、馬産を推奨するなどをして、藩の財政を立て直しました。
また、民政にも尽力し藩民からは名君と言われるようになりました。