明治天皇すり替え説の検証
明治天皇は孝明天皇の第二皇子として睦仁親王と呼ばれていました。
1867年、孝明天皇の突然の崩御に際して、満14歳と言う若さで皇位に就き、その直後に江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜から大政奉還の上奏を勅許するなど、明治維新において重要な役割を果たしました。
ところが、明治天皇がある時点ですり替えられたと言う説があり、もしそれが本当なら現在の天皇家の血筋の根幹に関わる事です。
そこで今回は、その明治天皇すり替え説を考えてみます。
明治天皇すり替え説の発端
明治天皇すり替え説は昭和4年に土佐藩出身で宮内大臣も務めた田中光顕のカミングアウトが始まりでした。その内容は三浦芳聖の【徹底的に日本の歴史を誤謬※を糾す】に書かれています。※間違っているの意味
この著書によると明治天皇は後醍醐天皇の11番目の皇子満良親王の子孫にあたり、長州藩によって守られた人物だと言います。
長州藩と言えば代々討幕が藩の基本方針だと噂されており、年始のあいさつに家老が「今年は討幕の機はいかに?」とお伺いを立て藩主が「時期尚早」と言うやり取りが慣例となっている俗説があります。
それを考えると後醍醐天皇の子孫をかくまい幕政をひっくり返す切り札としていたとも考えられなくもありません。
さらに、桂小五郎が薩長同盟の成功の理由として、「南朝の子孫を立てて王政復古する」と西郷隆盛に打ち明けたところ、西郷が同じ南朝の忠臣・菊池氏の子孫であった事で賛同したと言われています。
これが田中氏の言い分でしたが、明治天皇の即位前後で大きな変化が見られていたため、意外にも一蹴されることはありませんでした。
その根拠として・・・
顔のあばた
顔のニキビ跡か疱瘡のあとが即位前にはなかったが、即位後にはそれを隠すために髭を生やしたと言われています。
体格の違い
即位前は虚弱体質で細身であったが、即位後は体重90kgと言われて恰幅が良くなった。
利き手が変わった
体格については食生活等でどうにでもあるが、利き手はそうもいかないと思います。即位前は、右利きだったのに対し、即位後は左利きになったと言います。
他に不可解な点がいくつもあるようですが、明らかに変わったのはこの3点でした。
上下とも同じ人物の写真ですが別人と言えば別人ですし、この写真では何とも言えません。下のほうが、あの有名な明治天皇の面影を見て取れるような気がします。
桂小五郎が語った内容
桂小五郎が語った内容に【南朝】と言う表現が出てきます。
これは南北朝時代の南朝を意味します。
1336年、足利尊氏が光明天皇を確立したため、後醍醐天皇は南の吉野に逃れ、新たに朝廷を開きます。これが南朝でこの時日本は2人の天皇が存在する、南北朝時代に突入しました。
後醍醐天皇の南朝は北畠親房が著した【神皇正統記】で、南朝こそが正統であるとし北朝をけん制します。しかし、結局は南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡すことで南北朝は合体しました。
その結果、現在の天皇の系統は北朝側と言う事になります。その後、時代が変わっても、南朝正統論と言うのは、根強く残っていきます。江戸時代に徳川光圀が編集した【大日本史】や頼山陽の書いた【日本外史】も南朝正統論の立場をとっていました。
また、西郷隆盛の先祖として言われた菊池氏と言うのは南朝で九州北部を制圧していた、今川貞世が南北朝統一に際し和睦した九州南部の菊池武朝の事で、熊本県菊池市では押し一族でした。
後醍醐天皇の子孫とはいったい誰なのか??
では後醍醐天皇第11番目の皇子・満良親王の子孫にあたる、人物とは誰なのでしょうか?
その人物とは大室寅之祐と考えられています。
写真右が明治天皇左が大室寅之祐だそうです。
関係は分かりませんが、明治天皇の幼少の呼び名は祐宮と言います。
寅之祐が生まれたのが1850年で睦仁親王は1852年の生まれてした。これくらいの年の差なら、すり替わっても問題の無い年齢差と考えますが、大室家とはいったいどんな一族だったのでしょうか?
大室家の家系図を頼山陽が整備していました。
大室家は23代500年以上続く南朝の皇統は天皇家の系譜として、続いていると頼山陽は説いてます。しかし、過去帳を調べてみると大室家は途中で断絶しているとも言われています。
これが明治天皇すり替えをさらに複雑化しています。
寅之祐の父は、海賊の作蔵と言う人物で地家吉左衛門の養子となり地家作蔵と名乗ります。
1846年、20歳の作蔵は、京都浄土宗の大谷家の血筋スヘと結婚します。
そんな二人の間に、1850年に長男が生まれその名は、虎吉と名付けます。この虎吉が、後の寅之祐となり、明治天皇となったとされる人物です。
ここで確認ですが、虎吉は現時点では大室家とは関係ないことがお分かりでしょうか?
この現時点と言うのがポイントです。
では、どうやって虎吉は大室寅之祐となったのでしょうか?
虎吉が4歳の時、作蔵とスヘは離婚し虎吉はスヘに引き取られました。
その後、スヘが再婚したのが大室弥兵衛でした。これにより、虎吉は大室姓を名乗ることになりました。再婚した弥兵衛とスヘとの間に1855年に男の子が生まれ、その名前がに寅之祐。
寅之祐を生んだ直後にスヘが産後のひだちが悪く死去します。その後、まもなく寅之祐が亡くなり大室弥兵衛は、他の女性と再婚もしますが子供が出来ないまま死去してしまいます。
寅之祐が居なくなってはこの話が続かないと思いますが続きがあります。
大室家当主が死去しお家断絶した事で大室本家は、虎吉達(作蔵の息子)達に牛耳られることになります。この頃、虎吉は早世した異父弟の寅之祐に成りすまし始めます。
時が過ぎ、高杉晋作が組織した奇兵隊に大室寅之祐になりすました虎吉が南朝の末裔として参加して、注目され始めました。
※以降、虎吉を寅之祐と書きます。
そのあと寅之祐は、伊藤博文らと共にフルベッキの所にも行っています。フルベッキとは、オランダ出身の宣教師で幕府の命で英語の教師をしていました。
その時とられたのが、フルベッキ群像写真です。
天皇すり替え説では即位した睦仁新王は毒を盛られわずか7か月で逝去し、その遺体を布で巻かれて隠されて、以降寅之祐が明治天皇にすり替わったとされています。
すり替えが本当かどうかわかりませんが、妙なことに明治天皇は自分の妻を皇太后と呼んでいました。皇太后とは、父である孝明天皇の妻を指す呼び方です。なぜ、明治天皇は自分の妻を皇太后と呼んだのが疑問に残ります。
ひょっとしたら、本物の明治天皇の妻であった一条美子に遠慮があったかもしれませんね。
以上が、ザックリとですが天皇する替え説です。
天皇すり替え説は嘘だらけ
先ほど、明治天皇の写真を載せましたが、実はこの写真の左側の少年は、伏見宮貞愛親王だと言う事が分かっています。貞愛親王逸話に収められた写真で御少年時代としっかりと書かかれてます。
また、先ほどのフルベッキ写真は佐賀藩校の生徒の写真で言う事が分かってます。
佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠館で教育に当たったオランダ生まれの宣教師フルベッキと佐賀藩士ら計7名が移った古写真のガラス原版残っています。
ちなみにフルベッキ写真と言うのは、1865年の約40年前に志士が長崎で撮った写真とする説が出され、写真に名前を付けたものが、売られたことから志士の集合写真として広まっています。
ここの、40番の人が明治天皇(大室寅之祐)と言われていました。
原版と比較した結果、6人がフルベッキ写真にもほぼ同じ姿形で映っています。
このため2つは同時期の撮影とみられ、志士の集合写真説は完全に否定されています。
他にも、サンフランシスコ講和条約以前は自称天皇がたくさんいて、大室家もそのうちの一つで、田布施システムと言う言葉を使い流行らせた側面があるそうです。
田布施の隣の柳井市の郷土史家・松重揚江氏が、近所で変わり者扱いされていた大室近祐と言う老人が、自分の爺さんは天皇になったと言っていたことから、聞き取りを始めて、これからこの近祐の祖父が明治天皇になったと言う説が出てきたようです。
明治天皇には、不思議なとところがいくつかあります。以前書いた、トンデモ説の一つではありますが、火の無い所に煙は立たないのも事実です。
信じるか信じないかはあなた次第です…