明治時代までは、日本も一夫多妻制だった!?
2006年に自称占い師の男による20代女性に自宅で共同生活に加わるように脅迫した事件がありました。この男は【もてる呪文】なるものを知っているそうで、そのおかげで当時、10名の女性と共同生活を送っていたそうです。
もてる呪文があるなら教えてほしい今日この頃ですが、その男の風貌は太り気味の体型ではげ頭とインパクトがあり世の関心を引き、現代の一夫多妻制と話題を呼びました。
日本と世界の婚姻制度
現在、日本の婚姻制度では、一人の男性が多数の妻を持つことは認められていません。
しかし、世界を見ると、イスラム社会やアフリカ大陸などでは、一夫多妻制をとっている国があります。一番有名なのは、イスラム社会での一夫多妻制。男性は、妻を4人まで娶ることができます。女性好きな日本の男性諸君には、なんともうらやましい話ですが、実はそれほど甘いものではないようです。
夫には妻を保護して扶助を与える義務があり、それぞれの妻をみな平等に扱わなければいけないと決められています。ということは、一夫多妻制をとっているイスラム社会では、男性に対して経済力とえこひいきをしない度量の広さを求められるので、なかなか大変だということがうかがえます。
そのため、条件が満たせない人はイスラム社会でも一夫一婦制が推奨されるということです。
また、アフリカの部族でも一夫多妻が行われているそうで、夫は妻に家や田畑を与えて、妻と子供が生活できるようにしてあげなくてはいけません。妻がたくさんいれば必然的に男性の出費が増えるわけですから、アフリカでも経済力がなければたくさんの妻を娶ることができないのです。
日本でも100年前は一夫多妻制だった
一夫一婦制が当たり前の現在の日本ですが、ほんの100年前まで一夫多妻が認められていました。日本はもともと、妻のほかに妾を囲うことは、上流武士社会や富裕な町人層では、当たり前に行われていました。ここでも基本は、経済力が妾の基本になっているようです。
そんな一夫一婦の考えがもたらされたのはキリスト教が伝来した時と言われています。
キリスト教では、貞操観念を重視しており、婚姻の形態は一夫一婦が基本とされています。宣教師たちはキリストの教えとして、一夫一婦を日本に根付かせようとしましたが、その考えはなかなか広まりませんでした。
そんなか、蓄妾制は明治に入ってからも続き、明治3年に制定された【新律綱領】では、妻と妾を同等の二親等とすると定められました。
これは、妻であれ、妾であれ女性の権利を同等に守ると言う考えに基づいたものではなく、家制度がその背景にありました。つまり、家を存続させるためには、妻も妾も同等の立場に押し上げで、跡取りを産んでもらおうと言う事情が潜んでいたのです。
とは言え、一方でヨーロッパの国々に追い付け追い越せで国つくり邁進している折に、一夫多妻は人論にもとると考える人も増えて、一夫多妻をやめようと福沢諭吉や森有札らがその先駆けとなりました。
明治初期に初代文部大臣を務めていた森有札は【妻妾論】で一夫一婦制や男女同権を説いたことでも知られています。
彼は、妻と結婚する際に『契約結婚式』を行いました。この結婚式で二人は福沢諭吉を証人として3か条に渡る婚姻の約束事を定めた契約書を交わしました。この時、妻が薄いグレーのドレス姿で結婚式に臨んだことから、日本第1号のウエディングドレスと言われています。
ちなみに結婚生活はわずか11年で終わりを迎えました。
原因は、イギリス赴任中に妻がイギリス人と不貞したと噂されたという事でしたが、妻の弟が明治政府転覆のクーデターに関わったと言うのが本当の理由とも言われています。
一夫一婦制の模範を示したのは皇室だった
一夫一婦の風潮に、刑法では明治13年に、戸籍法では明治19年には妾は姿を消すことになります。そして、明治31年に民法によって一夫一婦制が確立することになります。
これにより、伝統的に側室を置いていた皇室でも一夫一婦制をとるようになり、大正天皇以降は側室制度も廃止されました。こうして日本では、一夫一婦制が当たり前になっていくのです。
一夫多妻と一夫一婦制のどちらが正しいと言うのはありませんが、現在の婚姻制度について当たり前と思っていたことも、歴史を少し見てみると、意外にそうでないこともあったりするものです。