戦国一数奇な運命を辿った浅井家三女・江は、今上天皇の先祖だった!?
1567年、北近江の大名・浅井長政は、織田信長の妹である市と婚姻することにより、織田家と同盟を結びました。
その浅井長政と信長の妹・市の間には、3人の娘が生まれました。
娘の名は、茶々・初・江。
天下統一事業を進めた織田信長の姪として、2度の大名家の滅亡や両親の死を経験して、その後天下をめぐる覇権争いに深くかかわっていくことになった、浅井三姉妹の江について書いていきたいと思います。
江について書く前に、他の兄弟について触れていきましょう。
茶々は、後の関白・豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼のを産むことになります。
初は、豊臣秀吉の計らいで京極高次と結婚したが、子はなかったそうです。最後に、三女・江は、佐治一成⇒羽柴秀勝⇒徳川秀忠に嫁ぎ3代将軍家光を産みます。正室で将軍の生母となったのは、15代通して江(崇源院)だけだったそうです。
大正天皇の皇后のご先祖様・完子
江には、羽柴秀勝との間に1人、徳川秀忠との間に5人の娘がいて、それぞれが名家に嫁いでいます。
秀勝との間にできた完子は、叔母である茶々(淀殿)の元で生まれ育ちます。その嫁ぎ先も、茶々の計らいにより、九条幸家に嫁ぎます。九条家とは、藤原摂関家の五摂家の一つで、名門中の名門です。
豊臣家が滅亡すると完子は秀忠の養女となりますが、以後は公家と徳川家の橋渡しに尽力したされます。
この九条家と言うのが、大正天皇の皇后九条節子様のお家で家系図を登っていくと、完子にたどり着くきます。大正天皇⇒昭和天皇⇒今上天皇となっていくことから、現天皇陛下の先祖は江だったことになります。
時代に翻弄された千姫
徳川秀忠のとの長女・千姫は、祖母・お市の方の美貌を受け継いだとされています。
千姫は、時の天下人・豊臣秀吉の計らいで嫡男・秀頼の元へ嫁ぎます。夫婦仲が大変よく、女性の成人式である鬢削ぎの儀において、秀頼が手ずから千姫の髪を整えたと伝わっています。
豊臣家が滅亡すると、徳川譜代の重臣・本田忠勝の孫・忠刻に嫁ぎます。ここでも、夫婦円満な関係を築きますが、忠刻も病死してしまいます。その後、江戸に戻りどこへも嫁がずその生涯を終えました。
相次ぐ出産で体を壊した珠姫
次女の珠姫は、前田利長の生母・芳春院(まつ)と交換する形で、大名:前田利常に嫁ぎました。
この時わずか3歳で利常に嫁ぎます。
夫婦仲はとても良好で、15歳の時を初めに9年で8人の子供を出産します。しかし、8人目の子供を産むとそのまま息を引き取ってしまったそうです。
心を病んだ夫に殺されかけた勝姫
三女・勝姫は、父方の従兄・松平忠直へ嫁ぎます。
忠直は、徳川家光や光圀の従兄に当たります。将来を有望視されていた忠直でしたが、藩内の家臣の統制が取れなかったり、大坂の陣での失態などでドンドンと評価が下がっていきました。
次第に、将軍から遠ざけられるようになり、心を病んだ忠直は勝姫へとやいばを向けます。勝姫は一命をとりとめましたが、この事件後秀忠は忠直を隠居させ、勝姫と子ども達を江戸へ住まわせます。二人は離縁まではしなかったようで、嫡男の光長が後を継いで藩政を担ったそうです。
夫に看取られず病没した初姫
4女の初姫は、京極忠高に嫁ぎました。
しかし、夫婦仲が良くなく、初姫は29歳で病気となり亡くなりますが、夫の忠高は見取ることなく、相撲見物にいっていたそうです。こうした夫婦関係から、初姫の葬儀は京極家の参列を拒み、徳川家だけで執り行われたそうです。
天皇家と徳川家を繋いだ和子
徳川の世が盤石になった頃、末娘の和子が生まれました。
そんな和子が嫁いだのが、後水尾天皇でした。それまで天皇家と将軍家トラブルが多く、和子の入内後は両家の仲立ちに尽力し、両家を取り持ったそうです。
夫婦仲も良いのもあって、将軍家と天皇家の関係の良くなったそうです。
江と結婚して以降秀忠は、正式な側室を一人も持たなかったとされています。
江の方が年上で姉さん女房だったことも一つの要因かもしれません。二人の間には、上記のように子宝に恵まれ、将軍の唯一の生母としてその役目を果たしました。
江の死後も秀忠は側室をもたずに、自分が亡き後、江が眠る所に埋葬するようにと命じていたことから、夫婦仲は上々だったようです。