戦国時代の都市と戦国大名の領国経営【内政編】
戦国大名達が治めていた領国内には、港町や城下町、有力寺社が保護した門前町などがありました。
城下町には、戦国大名達が家臣や職人、商人が住んでいました。
例えば、北陸の大名・朝倉氏の治める一乗谷は南北約2キロに渡り侍屋敷や町屋が計画的に整備されて日本有数の城下街となっています。廃墟と化した京から公家などが移り住み、京風文化が開花し、1567年には15代将軍・足利義昭も将軍の就任前に身を寄せています。
港町には堺のように南蛮貿易で発展し、環濠都市となり自治的な都市運営を行っていました。
門前町は、庶民による自社参拝が盛んになり、旅籠や商店が集まり発展。伊勢神宮の【宇治山田】厳島神社の【宮島】善光寺は【長野】などが発展していきました。
ここでは、そうした城下町・港町などのある両国を戦国大名たちがどんな風に経営したのかに迫っていこうと思います。
戦略上の重要拠点
戦国大名達の軍事力維持のためにも経済力は不可欠であり、莫大な富をもたらす【港】や【金山や銀山】がある拠点を押さえるのが最重要課題でした。
当時の港は、日本最大の物流拠点だった堺を始め、尾張の織田信秀が押さえていた伊勢湾の桑名などが有名です。
当時の堺は、南蛮貿易により銅銭や生糸・陶磁器などを輸入して莫大な利益を得ていました。また、刀鍛冶屋や鉄砲鍛冶が発達し、鉄砲の生産地でした。この堺の街に重要性を理解して真っ先に抑え込もうとしたのが織田信長でした。
信長は、足利義昭を奉じて上洛した時に、将軍から畿内5か国の管領職に任命されるが、これを断り、かわりに海上の【堺】と琵琶湖の要所【大津】を所望しました。
また、甲斐の武田信玄は金山開発に力を入れ、甲斐の黒川や中山、保村などの金山を開発し甲州金と呼ばれる金貨を作っています。
戦国大名による領国の統治
戦国大名は、城郭と城下町の整備を行い、そこに家臣が住むための武家屋敷を建て、その外側には商人達や職人たちがすむ町屋を配置。さらに、寺社が一か所にまとめられ僧侶が住む寺町も作られました。
町の外側には、農民たちが住み田畑を耕す構図となっていました。
町や国境などは明確に定められておらず、川や山が目印となっていました。国境付近に住む農民たちは、半治と言い隣接する両方の国に半分つづ年貢を納めていました。
戦国大名が統治する領国は、一つの国であり一部の大名家は、支配力強化のために独自の法律【分国法】を定め、人々の争いを回避するために成立しました。
領内の人々と城下町
一般的に領内に住む人々は…
- 農民…城郭周辺で農業を営んでおり、合戦時には兵士として出陣する事も。
- 商人…町屋の店で城下町に住む人々に向けて商売が行われました。
- 職人…刀鍛冶や石垣職人の職人は、積極的に保護されて城下いました。
- 僧侶…寺院が町の一か所に集められ、僧侶たちもそこに暮らしていました。
- 国人衆…その地域で昔から力を持っていた領主たちの事。
- 地侍…農民の中でも特に地位が高い者が国人衆と主従関係を結んでいました。
- キリスト教徒…キリスト教が盛んにだった地域では信者がたくさんいました。
城【本丸】
領主の権力の象徴である城は、軍事施設側面もあり防衛施設として櫓や天守などが立てられました。本丸事態に領主の生活スペースを置く場合もあるが、二の丸を建設しそこで普段の生活をしている場合もありました。
武家屋敷
城郭の外側や城郭の内に家臣達の居住する屋敷で、塀や堀で囲み防御力を高めていました。
寺町
城郭や武家屋敷の外側には、寺院とその付帯する施設が集められ僧侶たちもそこで生活していました。石垣や塀・堀なども建設され外敵からの侵入を食い止める施設としても機能していました。あの本能寺も、寺と言う名の軍事施設だったとも言われています。
町屋
城郭や武家屋敷、寺町の外側に置かれ商人や職人などの職種ごとに集団を作って暮らし、呉服町・油屋・大工町・鍛冶町などの町が形成されてました。この同じ商品を販売する同業者の集まりが【座】と呼ばれました。
座と楽市楽座
座とは、現在でいう所の【商工業者の組合】で朝廷や貴族・寺社にお金を払い、その地域での商売の独占をもらっていました。座の種類として、油・米・輸入品・藍染の材料などの様々ありました。
戦国時代になり、大名が城下町を作り出すと座を保護し、税収を得ようとしました。
また、毎月決まった日に定期市も行われるようになり、1日・6日・11日・16日・21日・26日と5日ごとに6回行われることから六斎市と呼ばれ、戦国大名達は直轄の城下町で行わせ増収を図りました。
楽市楽座
1567年に織田信長は、斎藤氏を滅ぼし稲葉山の地を【岐阜】と改めそこを居城としました。この岐阜城下町に、楽市令を出し、これまで朝廷や貴族・寺社の管轄であった市を信長の管理下に置き、座の独占権と市場税を廃止し、新規参入者の敷居を低くしました。
- 座…特定の商人の集まり市場は拡大せず、寺社などに上納金と税金が入る
- 楽座…誰でもその地で商売ができ、市場は拡大する。なお、朝廷や寺社に金銭は入らず、税金は免除で加盟金は織田信長の元へ…
戦国大名の収入源
戦国大名達は、家臣達の恩賞や戦費・公共事業などの資金を得るために様々な方法で収入を確保していました。
貿易による収入
貿易で有名なのは勘合貿易と南蛮貿易です。
室町幕府の足利家が行っていた貿易は、明国との勘合貿易で、勘合と呼ばれる渡航証明札が用いられたことからその名がつけられました。
明国からは、銅銭や絹織物が輸入され、幕府の大きな財源となっていました。周防の大内氏や管領家の細川氏がその役目になって明国へ勘合船を渡航させていました。
一方で南蛮貿易は、ポルトガル商人との間で行われていた貿易で、九州の諸大名や薩摩の島津氏が活発に行っていました。織田信長や豊臣秀吉も南蛮貿易に力を入れていました。スペインが太平洋航路を開拓すると、マニラを拠点として徳川家康がスペインとの貿易に力を入れています
鉱山開発
領内に金山や銀山がある大名は、積極的にその開発を進めました。
甲斐の武田氏が有名で、黒川金山・丹波金山・湯乃奥金山を開発し、金山衆と呼ばれる職人を派遣し採掘を行っていました。越後の上杉氏は鳴海金山を開発し、1598年の記録によると全国の金の6割が鳴海金山から発掘されていたそうです。
関銭
関所を設け、そこを通る人馬や荷物、船に対して通行料を取っていました。
通行の安全を担保すると言う意味合いで設置され、運用当初は荷物価格の1%程度の税率でした。その後、多様化して通行する場所により津料・山手などと呼ばれ、徴収目的も多様化してきました。
しかし、商売の弊害が出るとして、織田信長や豊臣秀吉が関所を廃止して関銭収入は消滅しました。
合戦による収入
合戦は戦費がかかりますが、勝利するとその見返りが大きかったようです。
合戦による主な収入は略奪品の売買や人身売買でした。
戦のあとで兵士が人や物を略奪する行為を【乱どり】と呼び、農兵たちはこの乱どりが目的で戦に参加していた節もありました。乱どりは現在の価値観から見れば人道的にどうなのかと思いますが、大名自身も褒美として許可したり大名家が率先して行ったりしたこともあったと言います。
この乱どりの戦利品が女性・子供の場合は人身売買に出されていました。
相場は『2貫~25文』と幅があり、供給が多いと値段が下がりました。島津氏と大友氏の戦いである【耳川の戦い】では、おびただしい数の人質などで羊の群れのように連行され、訴状に運ばれていったと言われています。
礼銭
本来礼銭は、守護大名や寺社が室町幕府に献上したお祝い金でしたが、戦国時代になると商人や領民たちが戦国大名達に様々な権利を認めてもらおうと礼銭を支払っていました。
堺の商人などは、瀬戸内海で安全に商売をするために村上水軍に年間2000貫支払ったとも言われています。
戦国時代の貨幣経済
戦国時代になると貨幣経済化が進み、明の銅銭が輸入されて使われていました。
その通貨もいくつかランク付けされており、価値が違うようです。
永楽通宝
明の三代皇帝永楽帝の代より鋳造されていた銅貨で、室町時代の勘合貿易で大量に輸入されていました。戦国時代も、メインで使われる貨幣として【永楽銭】と呼ばれていました。
鐚銭りょうしつ【びたせん】
個人などが偽造した粗悪な貨幣や長年使用し表面が削れた貨幣の事を指します。
私的に偽造した貨幣を【私鋳銭】と呼ばれ、こうした貨幣は良質な貨幣と比べ価値が低く、物が悪すぎると受け取り拒否もされたと言います。ちなみに良質な貨幣を【精銭】と呼ばれます。
京銭
鐚銭よりも質が悪く、模様や文字などは一切描かれていなかったようです。
1569年には、織田信長の命で京銭は精銭の10分の一とする交換基準定めたことによって、一般的に通用する貨幣となりました。
撰銭【えりぜに】
貨幣を粗悪なものと良質なものに選別することを言います。
商業が発展したこの時代は、貨幣の不足が深刻化し、私鋳銭や鐚銭の流通量が多くなり商人たちは、撰銭をすることで精銭だけを手元に残すようになりました。しかし、円滑な取引に障害が出るとして幕府や大名達は、撰銭令を出して禁止させようとしました。
甲州金
武田氏の特別な製法で作られた金貨で、1両=4分=16朱=64糸目と価値が定められていました。この金貨の純度は、約8割ほどだそうです。
天正小判
豊臣秀吉が金細工師に命じて作らせた金貨で、秀吉が家臣達の贈り物としたり兵糧や軍事物資の長たちなどに使用されました。1588年~1592年にかけて鋳造されていました。
このように戦国大名達は、乱戦を勝ち抜くために様々な工夫を凝らして領国経営を行っていました。一つ一つの政策は独立しているように感じますが、国を強化し生き残りをかけるためにすべて繋がっていたのです。