安土桃山時代

石田三成の人材登用管理術と藤堂高虎の戦国処世術

歴ブロ

豊臣秀吉の時代になると、量国経営も合戦も組織化が求められてきました。

武力がものをいう時代から、政務に長けた官僚タイプの武将が求められ頭角を現していきます。織田信長に仕えていた頃は、槍の又左と言われた前田利家も算術の技術を身に着け大名になるころには、文武両道の経営者として成長を遂げました。

今回は、そういった人物の中で石田三成藤堂高虎にスポットを当てて紹介していきたいと思います。

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石田三成は有能な家臣達おかげで善戦した

天下分け目の関ケ原の合戦は、徳川家康VS石田三成による策略を駆使し、両軍が関ケ原で衝突しました。開戦当時の兵力は、東軍・西軍ともに互角でしたが、西軍の中には徳川寄りの武将も多く、合戦自体には積極的に参加している者が少なくはありませんでした。

当の石田三成軍は、最後まで善戦し幾度も敵の猛攻を押し返しています。かつては戦下手とも言われた三成はどうして関ケ原で善戦する事が出来たのでしょうか?

「治部少に過ぎたるもの二つあり、島の左近佐和山の城

と言う歌が残っているように、石田三成には家老の【島左近】の存在が常にありました。一説によると、四万石の小大名だった三成が禄の半分と三顧の礼を以って家臣に迎え入れた、戦のプロだったのが島左近だったと言います。

武力だけではなく戦術眼にも優れていた為、石田軍の【軍師】的な役割を担っていたようです。関ケ原の前哨戦である【杭瀬川の合戦】においては、西軍を勝利へと導き士気を上げています。その後、夜襲を計画しますが三成が却下したために実現はしませんでした。

関ケ原の本戦で島左近は序盤に負傷するものの、それでも出撃を続け死を覚悟したその形相は【鬼左近】と呼ばれ、刀を交えた者たちからはあまりの恐ろしさに、左近のいで立ちを覚えていなかったと言います。

左近ほどの人材であれば石田三成以外にも仕官先はたくさんあったに違いないですが、三成のひたむきな心が左近の心をつかみ、関ケ原の戦いでの働きに繋がったと思います。

さらに、石田家には舞兵庫・蒲生郷舎・蒲生頼郷・杉江勘兵衛・磯野平三郎・入江権左衛門・小幡信世などの武将が家臣としていました。各々武勇で知られる武将でしたが、彼らにはある共通点がありました。

それは、豊臣秀吉の天下統一事業の中で彼らはリストラされた面々でした

浪人になった経緯も、秀次事件に連座して処分された者若くして亡くなった蒲生氏郷の後継者問題で処分された蒲生家の家臣達でした。三成は、秀吉の命で彼らを処分しながらも裏では救いの手を差し伸べていました。

こうした三成のよって救われた家臣達は最後まで石田家に従い、あるものは玉砕し、あるものは味方の撤退を受け持ち忠義を果たしました。結果的に関ケ原では負けはしましたが、極限状態でも戦い抜ける組織を作り上げる事に成功していたのです。

戦国時代の転職武将・藤堂高虎の職務履歴

関ケ原の合戦で敗戦にした西軍の大名たちの多くは、減封や取り潰しを受ける事になり、辛くも生き残った者は、外様大名として徳川政権下では厳しい藩政運営を強いられることになりました。

その中でも、実に7回の転職に成功した藤堂高虎にスポットを当ててみましょう。

近江出身の高虎は、浅井長政に仕えるも主家滅亡に遭い、近江の国人衆・阿閉貞征に仕える事に。その後は、織田家に仕えていた磯野員昌に80石※で仕えています

れきぴよ
れきぴよ

現在の金額で年収600万ほどだったようです。

しかし、磯野が信長の怒りを買い高野山に出奔すると、その城代として織田信澄に仕える事になりますが、程なくして浪人の身となっています。次に仕えたのが、秀吉の弟・豊臣秀長でそのまま嫡男の秀保に仕えるが早世したため高野山へ隠居を決意します。

ところが秀長の下での活躍を耳にしていた秀吉に呼び戻され、紀州遠征と朝鮮出兵で活躍し水軍を指揮や築城の才も発揮し豊臣家直参大名とて才能を発揮しました。

秀吉の死後は徳川家康に近づき秀頼の元を離れ、家康に仕えました。

高虎は家康と親交が深く、家康も高虎の築城の才を高く評価してたそうです。かつての聚楽第の邸内に徳川家康屋敷を建築した際に、設計図と違う建物を引き渡し家康が指摘したところ、高虎が設計上の不備に気が付き、独自の判断で設計変更しそれを自費で負担した逸話が残されています。

自身の建築で家康の身に何かが起これば、太閤殿下の面目がたちません。それこそ不備があれば手討ちにしていただきたいと言う心使いが家康の心にも刺さっていたようです。

 

7回の転職実績がある高虎は周囲の状況を見て都合の良い人物に付くことから風見鶏として嫌っている者が多かったようですが、義に厚い人物として知られてもいます。実際に、高虎自身は味方を裏切った事はなく、かつては苦労を共にした磯野員昌の子・行信を家臣として取り立ててもいます。

 

この記事からいえる事は、本当に欲しい人材を得る時は金に糸目は付けない事と、人はお金だけではなくその裏に信義が合ってこそ苦境の時でもその力を発揮してくれるものです。

石田三成と藤堂高虎は、見た目は硬派ながらその裏ではしっかりと人材を評価し、手を差し伸べて、忠義を報いる事で家臣達の忠誠心をえていたのです。だからこそ、天下人の信頼を勝ち得る事が出来たのではないのでしょうか??

 

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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