大化の改新後の政治体制
以前、大化改新の存在自体が疑わしいと書いた当サイトですが、実際に大化の改新があった場合にはどんな政治体制を敷いていたのか?今回は少し調べていきたいと思います。
改新の詔(かいしんのみことのり)
改新の詔とは、大化の改新において、新たな政治方針を示すために発せられた詔の事で
- 公地公民
- 地方行政組織制定
- 戸籍
- 新しい税制制定
その他、品部の廃止を示しました。
※品部とは…古墳時代 ― 氏姓制度について ― に書いていますので参考にしてください。大王に隷属する農民以外の労働者を指しています。
乙巳の変のあった前後の時代には、隋の滅亡や唐の成立を目の当たりにしたような留学生が中大兄皇子や中臣鎌足、そして蘇我氏に対して先進知識を伝えています。
645年以前の天皇であった皇極天皇は、乙巳の変(=蘇我入鹿暗殺)の二日後・・・蘇我蝦夷が自害した翌日に孝徳天皇に譲位。この譲位は日本で初めての出来事でした。この新体制の下では皇太子に中大兄皇子が、更に新しい役職に乙巳の変に関わった人物や留学帰りの僧などが、これらの役職に就いています。
大化の改新下の役職
さきほど役職の言葉が出てきたので、ちょっとだけ調べてみます。
右大臣・左大臣
大臣・大連の廃止と共に新しくできた役職で、日本での地位は基本的には 左>右。
※欧州やアフリカでは右を尊び、インドやイスラム諸国でも左手は不浄の手としてネガティブに考えられています。中国では時代によって考え方が変わりますが、日本が積極的に留学生を派遣していた隋や唐の時代では左を尊んでいたようです。
内臣(うちつおみ)
常設の官職ではないが、天皇の補佐役として置かれました。
※蘇我氏や安倍氏・大伴氏と比較して政治的実績のない中臣氏を政権中枢に置くために新設したものと言われ、その職掌は時代によって異なります。
国博士(くにのはかせ)
政治顧問にあたる。唐の諸制度を日本でも取り入れられるよう、遣隋使として派遣された学者と僧が臨時で就いた。後に諸国に一人ずつ置かれるようになりました。
主な役職の人事と人物
孝徳天皇下では、右大臣に蘇我石川麻呂、左大臣に安倍内麻呂、内臣に中臣鎌足、国博士に高向玄理(たかむこのくろまろ)・旻(みん)が就いています。
蘇我石川麻呂
乙巳の変の際、蘇我氏でありながら中大兄皇子と中臣鎌足に協力した人物。安倍内麻呂の薨去後、石川麻呂の異母弟・蘇我日向(ひむか)が石川麻呂による中大兄皇子暗殺を讒言。中大兄皇子の追討を受けて自害。その後、石川麻呂は潔白が証明され、日向は筑紫に追放された。
安倍内麻呂
安倍倉梯麻呂(くらはしまろ)と同一人物では?とされている。安部氏の祖は大彦命(おおひこのみこと)と呼ばれる日本書紀中にある四道将軍の一人とされ、埼玉県から発掘された鉄剣にその名(オホビコ、オホヒコ)が刻まれていることから実在したと考えられている。
中臣鎌足
乙巳の変では中大兄皇子らと共に中心的な役割を果たした人物。古くから中臣氏は神事や祭祀を司った一族で、直接的な政治実績は少なかった。その様な立場のため、仏教を受け入れるか物部氏と蘇我氏が対立した際に中臣氏は物部氏側に就いている。
大化の改新を推し進めたい中大兄皇子の側近であり、その改革に反対する蘇我石川麻呂と安倍内麻呂と対立。649年に安倍内麻呂と蘇我石川麻呂の薨去・失脚後は勢力を伸ばし、天智天皇から「藤原」姓を賜ることになる。
高向玄理(たかむこのくろまろ)
渡来人系の一族の子孫で、608年の遣隋使として中国に渡り隋から唐へと国が変わる激動期を体験。640年に新羅を経て帰国後、国博士となり、旻と共に八省百官という制度の設立に尽力するが、天智天皇(=元・中大兄皇子)の元で再度遣唐使として唐へ渡り、客死。長年、隋・唐にいた親唐派でもある高向玄理は天智天皇の百済中心の外交政策という政治スタンスが合わず実質更迭のようなものだったと伺える。
旻(みん)
高向玄理らとともに隋へ渡った一人。玄理よりも早くに帰国して私塾を開き、豪族の子息らに先進的な知識や文化を伝え、後継者を育成する(生徒の中には蘇我入鹿もいたそうで、大層優秀だったとか)。後に国博士として高向玄理と共に八省百官の制度設立に尽力する。
石川麻呂を自害に追い込んだ黒幕は中大兄皇子と中臣鎌足だろうと勿論言われています。実は高向玄理と旻と共に隋へと行った南淵請安という人がいます。この人は政権に入るよう誘われていましたが、新政権に入ることはありませんでした。実はこの南淵請安。中大兄皇子と中臣鎌足の先生でもあります。儒学を教えていたそうです。
新政権の時には実は既に亡くなっていたとも言われていますが…南淵請安は、2人の先生でもあるので、ひょっとすると人となりを知っていたため断っていたのかもしれませんね。