麒麟がくる

忠義の家臣、明智光秀の腹心・藤田伝吾(行政)の人生

歴ブロ

明智光秀と言えば、日本史を学んだ人なら戦国三傑の次に有名な人物の一人です。

織田信長の優秀な家臣の一人として外交・戦に活躍した光秀ですが、その光秀を支えた明智五宿老と呼ばれる本能寺の変にも深くかかわった家老たちが居ました。

その明智五宿老の一人として斎藤利三は徳川家光の乳母として有名な春日局の父として知られています。2020年2月現在【NHK大河ドラマ】の麒麟がくるでも後の明智五宿老として本能寺の変に散った藤田伝吾(行政)が度々登場しています。

敵は本能寺にあり!】と主君・信長を討つ決意をしたとき、いち早く光秀の意向を聞かされた一人として信頼されていました。

山崎の戦いでも奮闘しますが、最後は自害して果てました。

 

本能寺の変で明智光秀は実行犯ではなかった!? 明智光秀による本能寺の変のような裏切りは、下剋上の戦国時代では当たり前のように起こっていました。とは言うものの、この明智光秀の裏切り...

 

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藤田伝吾(行政)

麒麟がくるでは、若き日の光秀の側近として【伝吾】の名で登場していますが、本名は藤田行政を名乗っていました。武芸に秀でており、槍の名人として明智光秀の父・光綱の代から使える明智家譜代の家臣でした。

その半生は不明な点が多く、史料もあまり残っていないため、生まれた年もはっきりしていません。しかし、光秀ともに山崎の合戦で奮闘し戦死していることから、最後まで明智家のために忠義を尽くした家臣であったことが伺えます。

麒麟がくるでも、若き日の光秀の良き相談相手となり、不遇の時代を共にしたいわば戦友のような間柄だったのではないかと思われます。だからこそ、光秀の天下を願い本能寺の変や山崎の合戦についていったのでしょう。

 

明智家の譜代の家臣

明智氏は、美濃国の守護を務めた土岐家の庶流で、明智城を守り治めていました。

そんな明智氏の光綱の家臣として藤田伝吾は仕えていました。

残念ながら、藤田行政(伝吾)の前半期のはっきりとした年表は分かっていません。

麒麟がくるでは、実直な大男でその屈強な体で武勇に秀でた設定となっています。

 

この頃の明智家は、守護土岐氏の代わりに美濃国を支配してた斎藤道三に仕えていました。しかし、斎藤道三と嫡男・義龍によるお家騒動・長良川の戦いで明智家は道三側に付くも、敗北し、光秀の父・光綱は討ち死にしてしまいます。

武勇に秀でていた藤田伝吾ですから、長良川の戦いでも出陣してたと推測されます。

道三の死後は、義龍に仕えていましたが、その後の織田信長の侵攻により斎藤家が滅亡してしまい伝吾の仕える明智家は路頭に迷い、光秀と共に浪人生活になりました。

この時も、伝吾は光秀を見限らず付き従いました。

 

明智光秀を輩出した土岐氏の繁栄と没落 土岐氏は、鎌倉時代から江戸時代にかけての武家で、清和源氏の流れを汲んでます。 南北朝時代に、美濃国守護を務め室町幕府の侍所頭人...

 

明知光秀の信長士官時代

本能寺の変まで、光秀は最終的に織田家に仕えるわけですが、これは信長の正室・帰蝶(濃姫)の口利きがあったとも言われています。とはいえ、光秀は中途採用組なので、織田家での出世は容易ではありませんでした。

しかし、歴史では順調に出世し、最終的には城持ち大名として、近江坂本城を拠点として180万石以上を支配するまでになりました。

1573年には、信長の命で光秀が山城国・静原城を落とし、その後藤田伝吾が城主となり城持ちとなりました。

 

Wikipediaより引用
織田信長の正室・濃姫【帰蝶】の謎だらけの人生 Wikipediaより引用 濃姫は、織田信長の正室として数々の歴史ドラマや小説、舞台など登場する人物として有名です。歴史的には、織...

 

藤田伝吾の数少ない史料の『多門院日記』には記述が残されるいます。

天正5(1577)年11月29日には…

「大和国興福寺大乗院の「御反銭」の件で、織田信長(「右大臣公」)の副使藤田伝五が去11月26日より奈良へ到来しており、督促を受けて興福寺側は以外取乱す。」

と書かれています。

この頃の光秀は、雑賀攻めや丹波攻めで大忙しだったので、伝吾に白羽の矢が立ったのですが、光秀の伝吾への信頼は相当の者だったと推測されます。

 

本能寺の変

麒麟がくるではどんな描写で再現されるか分かりませんが、本能寺の変では斎藤利三や明智秀満と共に謀反決行をいち早く知らされていた人物の一人でした。伝吾は、光秀の意を汲み取り大和郡山城主・筒井順慶を味方にすべく動きました。

しかし、秀吉の中国返しの速さがそうさせたのか、筒井順慶は明智光秀に加担することなく、山崎の合戦へと進んでいくのでした。

山崎の合戦と藤田伝吾の死

秀吉の素早い帰還で思うように兵を集められなかった光秀軍ですが、山崎の地で秀吉と対峙することになります。

太閤記によると、藤田伝吾は光秀の本陣5000に配属されていたとされています。

通常、総大将の帯に配属されるのは軍師や武芸に秀でていた武将や宿老クラスの重臣でした。武田信玄を例にとると、信玄本陣に、山本勘助や山形昌景が配属されています。

史料の記載には、光秀本陣に配属された武将は伝吾以外ないため、伝吾はその武勇と軍略にも期待されていた可能性が高いでしょう。

実際の戦では、光秀本隊右翼で6箇所を負傷しつつ、奮闘した藤田伝吾であったが、形勢不利と見るや淀城まで退却します。これは光秀が勝竜寺城に退却したのに合わせ、秀吉軍が勝竜寺城を攻撃した場合はその背後をつく策と考えられています。

しかし、当の光秀の勝竜寺城はあっさり陥落してしまいました。

勝竜寺城は平城で、兵を多くは収容できなく落城は目に見えていたのですが、予想以上の早い落城に最後を悟った藤田伝吾は、自害して果てました。

 

明智家重臣【五宿老】【三羽鴉】

明智光秀には、明智五宿老と明智三羽鴉と呼ばれる8人の重臣が居ました。

明智五宿老

明智五宿老

明智秀満

明智光忠

斎藤利三

溝尾茂朝

藤田伝吾

明智秀満と光忠は、明智一門で秀満は光秀の叔父で、光忠は従兄弟です。

溝尾茂朝は伝吾と同様、譜代の家臣で山崎の戦で落ち延びましたが、明智家の最後を悟り自刃したとされています。

明智三羽鴉とは、本能寺の変で真っ先に突撃していった三人の武将の事を言います。

明智三羽鴉

安田国継…斎藤利三に仕えた人物で信長に槍を刺し、森蘭丸を討ち取ったされています。

古川九兵衛…本能寺の変で突撃した以外の活躍は見られません。

箕内大内蔵…他の二人同様に本能寺の変で真っ先に突撃した。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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