戦国大名の家紋の意味とは?
家紋と言えば、徳川家康の三つ葉葵や織田信長の木瓜などが有名ですが、戦国大名や摂関家などの有名な家には、家紋と言われるその家を表すマークがあります。
以前、石田三成を例に挙げて旗印について記事にしたことがありましたが、今回は家紋について触れていきたいと思います。
家紋・旗印・馬印・旗指物
似たような印に、旗印や馬印などがありますが、同じ家に属する者としては同じですが、使用する状況によって違います。
家紋=その家をあらわす印。
旗印=だれが軍勢を率いているのかがひと目でわかる印。
馬印=その軍勢の大将の居場所をあらわす印。
旗指物=軍旗や幟の総称で、旗印も含まれる。
簡単に分けると上記のようなことになります。
大名家によっては、家紋と旗印・馬印を同じものを使用している事がありますが、武田信玄などのように旗印に【風林火山】と記したものを使用ていることもあります。
同じ徳川軍でも本多忠勝もいるわけですから、彼らの軍勢がわかるように、忠勝は二段鳥毛丸で本陣を示して、その軍勢には、白地胴黒に本の字の旗をあげさせていました。そこには、徳川の葵の紋はありませんが、それでも周囲から見れば【ここに本多忠勝がいる】と分かるようになっていました。
旗印や馬印は、戦場に立つ武将のしるしとなるのですが、これは個人の趣味よるものが大きく、自軍に所属している家紋を掲げる者もいれば、自分の家の家紋を掲げている者もいました。※分かりやすく言えば、武田氏に属していた真田氏が六文銭を掲げていた等…
家紋の起源は平安時代から?
家紋と言うのは【これをわが家の家紋とする】と言う具合に使われたのではなく、自分の文様として使っているうちに【この文様はあの家のあの人】といったように広がり定着したそうです。その後、意識的に【家紋】として使用するようになったとされています。
文様自体は、隋や唐から渡ってきたのもので、それらが日本特有の草花・動物がモチーフとなり平安時代の公家たちが好んで身の回りに取り入れたことから始まりました。それがいつからか、家紋として定着したと考えられています。
江戸時代の学者たちの間でも家紋の研究がなされ、新井白石は平安貴族の牛車に使用されたと考察され、伊勢定丈は平安時代末期の平治の乱頃に使われ始めたのではないかと考えられました。また、山鹿素行は、武家が本格的にシンボルとして家紋を使用し始めたのは鎌倉時代初期頃だとしています。
様々な説がありますが、平安時代や鎌倉時代にはすでにその家のシンボルとして家紋を意識的に使用していたことが分かります。
戦国大名たちの家紋
室町末期になると家紋は、独自の日本文化として成立し、家系や血統を表すのに用いられるようになります。その文様には、様々なものがありそして意味が込められていました。
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天皇家に認められた桐の紋・豊臣家の家紋
桐は、非常に格調高い木として【鳳凰の棲む木】として枕草子に記されています。
天皇家専用の紋として、【桐】と【菊】があり、功績のあった者に使用が許され、足利尊氏や織田信長・豊臣秀吉にも使用が許されました。また、同じ桐の家紋でもよく見ると細部が異なり、秀吉の【太閤桐】は中央の花弁が7枚、左右に5枚の【五七の桐】で、他にも【五三の桐】【九七の桐】など桐だけで3つの種類があります。
桐に限らず、同じような家紋を本家と分家、主君と家臣で家紋を少しずつ変えて使用するために、家紋の数は膨れ上がり現在では2万種類以上も増殖しています。
徳川家康がこだわったの葵の家紋
葵の家紋は、京都の加茂神社の神紋で、徳川家が氏子だから使用した説や家康本人が考えたとも言われています。実は天皇家は徳川家康にも桐の紋を与えようとしましたが、家康本人が丁重にお断りしたそうです。それほどまでに葵の紋にこだわりがあった事が伺えます。
ご先祖様は菅原道真?前田家の家紋
結構有名な家紋として、前田家の【加賀梅鉢】があります。
神社巡りをしている人なら見たことがあるかもしれない。この家紋は、太宰府に飛ばされた菅原道真を祀った菅原神社の神紋【梅】が由来となっています。
なぜ前田家がこの家紋を採用したのかと言うと、前田利家が菅原道真の末裔だと称していることから道真ゆかりの【梅鉢】を家紋としているのです。
政策でデザインを変更した島津家の家紋
九州の雄・島津家は十文字に丸の分かりやすい家紋です。
この家紋には、二匹の龍を表している説や厄払いの意味を込めたなどの説があります。また、最初は十字のみの家紋だったようですが、キリスト教の禁教令が出たことによって、十字架と区別するために丸を追加したと言われています。
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二つある井伊家の家紋
直虎と直政と直弼を排出した有名な彦根城主・井伊家は、四角い井桁のみのシンプルなデザインが有名です。単純とはいえしっかりとした意味を持っていて、【井戸】の意味を持っているそうです。どうやら、井伊家の子孫である「共保(ともやす)」が井伊八幡宮の井戸から生まれたと言う伝説から来たとされています。
しかし、家紋は挿絵の右にある、橘紋で共保が生まれた井戸の側に橘の花が咲いていたことから採用されていました。井桁の紋は、主に替紋として旗印などに使われ、井伊直政が使用したと言われています。
石田三成の家紋は独特のセンスが光る!
旗印の記事で取り上げましたが、石田三成の家紋は【大一大万大吉】です。
意味は、記事を見てもらえれば分かりますが、万人と天下の平和を掲げてこのような家紋となったと言われています。
地元では夫婦の象徴の柴田勝家の家紋
この二羽の鳥が羽ばたいている家紋は、二つ雁金(かりがね)と呼ばれてます。
書かれている鳥は、雌雄一対の雁(がん)で上下で口の開口が違うのは【阿吽】表現しているそうです。柴田勝家は賤ケ岳の戦いで秀吉に敗北し、お市の方と自害していることから、地元ではこの二羽の雁は勝家とお市と言われていそうです。
今川義元しか使わなかった家紋
今川義元の家紋は、上記のように「櫛(くし)」のような形をしています。しかし、名前は【赤鳥】であるにもかかわらず鳥がモチーフではなく、馬具の垢取りからきていと言われています。
これは、今川家の祖・範国という人が「赤い鳥と共に戦うべし」というお告げを聞いたため使い始めたとも言われ、あるいは「戦いの際に女性の道具は幸運の象徴だ」と言われたため利用したとも言われてますが定かではないようです。
この家紋は今川義元が馬印として使ったそうですが、彼以外でこの紋を使った人物はいないようです。今川家の本当の家紋は、下記の足利二つ引両と呼ばれるものだったそうです。
この記事では、様々な家紋を紹介していきました。
始まりは、貴族たちが宮中へ参内するときの見分けるための目印だったかもしれませんが、それがその人の顔となり家臣や兵をまとめるための象徴的な物へと変化していきました。
今回は一部の戦国武将を書きましたが全て紹介するときりがないので、紹介してほしいものがあればコメントやメールなどいただければ、追加していきたいと思います。