日本史

関東大震災はなぜ被害が拡大した? 流言・帝都復興・その後の日本社会

歴ブロ

1923年に起きた関東大震災は、東京や横浜を中心に甚大な被害をもたらしました。

被害がここまで大きくなった背景には、地震の揺れだけでなく、当時の都市構造や火災の拡大、消防・水道などの機能低下も関係しています。

さらに、震災後の混乱のなかでは流言が広がり、朝鮮人などが殺害される事件も起こりました。一方、東京では後藤新平を中心に帝都復興が進められ、その後の都市づくりにも大きな影響を与えています。

また、震災による経済への打撃は、のちの昭和金融恐慌へつながる問題の一つとなりました。

この記事では、関東大震災でなぜ被害が拡大したのかを確認しながら、震災後の社会の混乱や帝都復興、その後の日本への影響まで見ていきます。

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関東大震災とは

1923年9月1日、相模湾周辺を震源域とする大正関東地震が発生しました。

この地震によって、東京府や神奈川県を中心に、千葉県・埼玉県など南関東の広い範囲で大きな被害が出ます。

なかでも深刻だったのが東京と横浜です。建物の倒壊に加えて各地で火災が発生し、市街地の広い範囲が焼失しました。また、沿岸部では津波、山間部では土砂災害も起きています。

関東大震災による死者・行方不明者は10万人を超え、日本の近代史でも特に被害の大きかった自然災害の一つとなりました。

関東大震災による東京・横浜の罹災地域を示した地図。赤色部分を中心に大きな被害が確認できる。
出典:国立国会図書館「NDLギャラリー 資料が語る関東大震災」『關東大震災圖:東京横濱罹災地圖詳報』
地域住家被害棟数※死者・行方不明者
東京府188,349棟70,387人
神奈川県82,530棟32,838人
千葉県13,946棟1,346人
埼玉県4,759棟343人
静岡県3,045棟444人
山梨県577棟22人
その他181棟5人
合計293,387棟105,365人
出典:内閣府『令和5年版 防災白書』掲載データをもとに作成

※住家被害棟数は、全潰・焼失・流失・埋没などを集計した数値。半潰はこの合計には含まれていません。

なお、被害は住宅だけでなく、東京の行政・経済・教育を支える施設にも及びました。内務省や大蔵省などの官庁、日本銀行、明治大学、三越呉服店なども焼失・被災しています。

なぜ関東大震災では火災被害が拡大したのか

関東大震災では、各地で発生した火災が短時間のうちに市街地に広がり、東京や横浜に大きな被害をもたらしました。
では、なぜこれほどまでに延焼が広がったのでしょうか。

地震が発生したのは午前11時58分ごろ。ちょうど昼食の準備をしていた家庭も多く、かまどや七輪などから各地で火災が発生します。東京市では多数の出火が相次ぎ、そのうち消し止められなかった火災が市街地へ広がっていきました。

火災が大きく広がった背景には、昼食時の出火だけでなく、木造住宅の密集や水道の断水、強風なども関係していました。

当時の東京では木造住宅が密集する地域が多数あり、さらに地震による水道の断水で消防設備があっても十分に消火できない状況に陥ります。消防組織も同時多発する火災と地震による断水までは想定していませんでした。

加えて、当日は強い風が吹いていました。内閣府によると、東京では風速10メートルを超える風が吹き、しかも風向きが何度も変化したため、火災はさまざまな方向へ広がりました。東京市の火災は約46時間続き、市域のおよそ43.6%が焼失しています。

こうした状況のなか、多くの人が火災から逃れるために公園や広場へ避難しました。しかし、当時は現在のような広域避難場所が整備されておらず、避難先にも大量の人や家財道具が集まります。本所区の被服廠跡では、避難していた多数の人々が火災に巻き込まれ、大きな犠牲が出ました。

れきぴよ
れきぴよ

被服廠跡とは、陸軍の被服工場が移転したあとの広い空き地のこと。多くの住民が避難場所として集まりましたが、避難民は火災に巻き込まれ、数万人規模の犠牲者が出る惨事となります。

この惨事は「火災旋風」によるものと説明されることもありますが、発生状況については現在も研究が続いています。

つまり、関東大震災の被害が拡大した背景には、

  • 同時多発火災
  • 木造住宅の密集
  • 水道の断水
  • 消防能力の限界
  • 強風
  • 避難の混乱

が重なっていたのです。

震災後に広がった流言と社会の混乱

関東大震災では、火災や建物の倒壊だけでなく、通信や報道機関も大きな被害を受けました。

電話や電信が途絶え、新聞社も被災したため、被災地では正確な情報を得ることが難しくなります。こうした情報不足が、人々の不安をさらに強めていきました。

流言が広がった背景

こうした情報不足のなか、「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を入れた」といった根拠のない流言が広まりました。

災害直後は、人々が少しでも早く危険に関する情報を得ようとするため、出所の確認できない情報でも急速に広がりやすくなります。

さらに、関東大震災の場合は、震災前から存在していた朝鮮人への偏見や社会不安も流言の拡大に影響しました。

また、警察や軍の一部も当初は流言を事実として扱い、それが未確認情報をさらに広げる一因となっています。

自警団と殺傷事件

流言が広がるなか、各地では住民による自警団が組織されました。

自警団による取り調べや暴力が広がり、朝鮮人を中心に、中国人や日本人の一部も殺傷事件に巻き込まれています。さらに、軍隊や警察の一部も殺傷事件に関与しました。

戒厳令下で起きた事件

政府は震災後の混乱に対応するため戒厳令を敷き、軍隊や警察による警備を強化しました。

そうしたなかで亀戸事件や甘粕事件も起きています。

亀戸事件とは

関東大震災直後の1923年9月、亀戸警察署に拘束された社会主義者・労働運動家らが軍によって殺害された事件。

甘粕事件とは

1923年9月、無政府主義者の大杉栄と女性解放運動にも関わった伊藤野枝、さらに大杉の甥が憲兵隊に連行され、殺害された事件。事件名は憲兵大尉・甘粕正彦に由来します。

関東大震災では、地震や火災による被害に加えて、情報不足や社会不安、当時の差別意識や政治的緊張を背景とする殺傷事件も起きていたのです。

後藤新平と帝都復興

大きな被害を受けた東京では、震災直後から復旧・復興が進められました。

中心となったのが、第2次山本権兵衛内閣で内務大臣を務めた後藤新平です。1923年9月には帝都復興院が設置され、後藤は総裁として東京の復興計画を進めました。

後藤は、焼けた町を復旧するだけでなく、道路や区画を見直し、災害に強く機能的な都市へつくり直そうとしました。

とくに重要だったのが、道路整備と土地区画整理です。震災前の東京には狭い道路や木造住宅が密集する地域が多く、火災の延焼や避難を難しくする要因にもなっていました。復興事業では幹線道路の拡幅や新設が進み、隅田川には新しい橋も架けられていきます。

また、隅田公園・浜町公園・錦糸公園などの大規模な公園も整備されました。こうした公園には、市民の憩いの場だけでなく、火災時の避難場所や延焼を防ぐ空間としての役割も期待されています。

後藤が当初構想した復興計画は、財政や政治上の事情によって大幅に縮小されました。それでも、道路・橋・公園・区画整理などの整備は進み、その後の東京の都市構造に大きな影響を残しています。

関東大震災はその後の日本に何を残したのか

関東大震災は、東京の都市構造や日本経済にも大きな影響を残しました。

震災後、東京では多くの被災者が杉並・世田谷・中野・豊島などの郊外へ移り、市街地が中心部の外側へ広がっていきます。

経済面では、震災によって決済できなくなった手形を救済するため、政府と日本銀行が支払いを猶予しました。これが震災手形です。

その後、回収の難しい震災手形が残り、1927年にはその処理問題が金融不安を強め、昭和金融恐慌につながる要因の一つとなりました。

また、震災後の社会不安や殺傷事件は、政府や警察による社会運動への警戒強化とも重なり、1925年の治安維持法制定へ向かう時代背景の一つとなります。

関東大震災は、1923年の災害にとどまらず、大正から昭和へ移る日本社会にも影響を与えた出来事でした。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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