ドイツ

【図解】普墺戦争とは?ビスマルクとプロイセンがドイツ統一の主導権を握った戦争

歴ブロ

1866年、ドイツ地方の二大国だったプロイセン王国とオーストリア帝国が戦争に突入しました。普墺戦争です。

この戦争は、デンマーク戦争後のシュレースヴィヒとホルシュタインの管理をめぐる対立から始まりました。対立の背景にあったのは、ドイツ統一の主導権をプロイセンとオーストリアのどちらが握るのかという問題です。

最終的に、普墺戦争の主要な戦闘はわずか数週間でほぼ決着し、オーストリアはドイツ統一の枠組みから外れ、プロイセンを中心とする統一が進められるようになりました。

今回は、普墺戦争の開戦からプロイセンの勝利、そして北ドイツ連邦の成立までを見ていきます。

普墺戦争までの流れ(AIにて作成)
普墺戦争までの流れ(AIにて作成)
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普墺戦争が始まる前の動きを見てみよう

戦争に入る前のプロイセンは軍備を整えるだけでなく、周辺国との関係を見極めながら、オーストリアと戦うための条件を整えていきました。

その中心となったのが、1862年にプロイセン首相となったビスマルクです。まずは、ビスマルクがどのような方針でプロイセン主導のドイツ統一を進めようとしたのか見ていきましょう。

ビスマルクとプロイセンのねらい

プロイセンでドイツ統一政策を進めた人物が、首相オットー・フォン・ビスマルクです。

鉄血宰相
ビスマルク

ビスマルクは1862年にプロイセン首相へ就任しました。

当時のプロイセンでは、国王ヴィルヘルム1世が進めようとした軍制改革と軍事予算をめぐり、政府と議会が対立していました。

首相に就任したビスマルクは議会の予算委員会で、ドイツをめぐる大きな問題は議会での演説や多数決だけでは解決できず、軍事力を含む国家の力が必要だと訴えました。

れきぶろ
れきぶろ

後に「鉄血演説」と呼ばれ、ビスマルクの政策は「鉄血政策」と表現されるようになります。

一方で、ビスマルクはプロイセンの軍事力を重視しながらも、各国との外交交渉を進め、不利な状況で戦争に入ることを避けようとしています。

軍事力だけに頼らず、外交によって戦争の条件を整え、戦後にどのような秩序を作るかまで見据えていたのです。

プロイセンとイタリアが同盟

1866年4月、プロイセンはイタリア王国と軍事同盟を結びました。

1861年に成立したイタリア王国は、なおオーストリアの支配下にあったヴェネツィアの獲得を目指していました。

一方、プロイセンにとっても、イタリアとの同盟には大きな意味があります。イタリアが南から攻めれば、オーストリア軍はドイツ方面だけに兵力を集中できないためです。

普墺戦争時の同盟関係
普墺戦争時の同盟関係(AIにて作成)

プロイセンはオーストリアの兵力を分散させられる、イタリアはヴェネツィアを獲得する機会を得るということで、両国の利害が一致しました。

この同盟によって、ドイツ統一をめぐる戦争は、イタリア統一の動きとも結びついていきます。

普墺戦争の開戦とプロイセンの勝利

プロイセンとイタリアが同盟を結んだことで、オーストリアを南北から攻撃する態勢が整いました。

一方、ドイツ連邦内では、シュレースヴィヒとホルシュタインの扱いをめぐる対立が続いています。やがて両国は軍を動かし、ドイツ諸邦を巻き込む戦争へ突入しました。

ドイツ諸邦を巻き込んだ普墺戦争

1866年6月、プロイセン軍がオーストリアの管理下にあったホルシュタインへ進軍しました。

オーストリアはこの問題をドイツ連邦議会に持ち込み、6月14日にはプロイセンに対する連邦軍の動員が決定されます。

これに対してプロイセンは、連邦議会の決定を認めず、ドイツ連邦は解体されたと宣言しました。さらにザクセンやハノーファー、ヘッセン=カッセルなどへ軍を進め、普墺戦争が始まります。

この戦争は、プロイセンとオーストリアだけが戦ったものではありません。

オーストリア側にはザクセン、ハノーファー、バイエルン、ヴュルテンベルクなどが加わり、プロイセン側にも北・中部ドイツの諸邦が参加しました。さらに、南方ではイタリア王国がオーストリアに宣戦しています。

ドイツ諸邦は地域ごとにきれいに分かれたわけではなく、それぞれの立場や利害によって両陣営に分かれました。

普墺戦争は、ドイツ連邦の内部で起こった主導権争いであると同時に、ドイツ地方の政治的な枠組みを作り直す戦争でもあったのです。

ケーニヒグレーツの戦いでプロイセンが勝利

ケーニヒグレーツの戦い、1866年7月3日
ケーニヒグレーツの戦い、1866年7月3日

普墺戦争の勝敗を決定づけたのが、1866年7月3日にボヘミアで行われたケーニヒグレーツの戦いです。

この戦いでプロイセン軍はオーストリア軍に大きな勝利を収め、普墺戦争の大勢は開戦から数週間でほぼ決まります。

プロイセン軍は軍制改革によって兵力を整え、参謀本部が作戦を立て、鉄道を使って各地の部隊を短期間で戦場へ移動させました。さらに、兵士が使用した後装式のドライゼ銃も、銃口から弾を込めるオーストリア軍の小銃より素早く装填でき、接近戦で大きな力を発揮させています。

ちなみに…

この時期のプロイセンではドイツ関税同盟(1834年)を背景に市場が広がっており、石炭・鉄工業や鉄道網も発達していました。また、19世紀半ばには製鋼技術や発電機など、のちの第二次産業革命を支える技術も登場し始めています。こうした経済力と交通網が、プロイセンの軍制改革や迅速な動員を支える基盤となりました。

以上のような「軍制、輸送、指揮、装備の違い」がプロイセン軍の勝利につながっています。

れきぶろ
れきぶろ

プロイセンが軍備に力を入れた背景には、1848年革命後に小ドイツ主義による統一を進めようとしたものの、1850年のオルミュッツ協定で断念させられた経験がありました。

【図解】普墺戦争はなぜ起きたドイツ統一をめぐるプロイセンとオーストリアの対立

主力軍が敗れたオーストリアは戦況を立て直すことが難しくなり、両国は講和へ向かいました。

普墺戦争後のドイツ統一はどう進んだのか

戦後処理によって、1815年から続いていたドイツ連邦は解体され、ドイツ統一の流れは大きく変わります

一方、プロイセンと同盟していたイタリアも、戦争の結果としてヴェネツィアを獲得しました。

ここからは、普墺戦争がドイツとイタリアにどのような変化をもたらしたのか見ていきましょう。

プラハ条約とドイツ連邦の解体

1866年8月、プロイセンとオーストリアの間でプラハ条約が結ばれ、普墺戦争は終結しました。

この条約でオーストリアは、1815年から続いてきたドイツ連邦の解体と、オーストリアを含まない形でドイツ諸邦が再編されることを認めます。

これによってオーストリアは、ドイツ統一をめぐる争いから外れることになりました。プロイセンが小ドイツ的統一を進める道が開かれたのです。

一方、プロイセンはオーストリア本土から領土を奪わず、過大な賠償も求めませんでした。

ビスマルクはオーストリアを徹底的に弱体化させるよりも、ドイツ統一の枠組みから外すことを優先したと考えられます。将来、オーストリアがプロイセンの敵国と結びつく事態を避ける意味もありました。

オーストリアへの講和条件は比較的穏やかでしたが、ドイツ諸邦に対する処理は異なります。

プロイセンは、オーストリア側で戦ったハノーファー王国、ヘッセン=カッセル選帝侯国、ナッサウ公国、自由都市フランクフルトなどを併合しました。シュレースヴィヒとホルシュタインもプロイセン領となり、プロイセンの領土は北ドイツを東西につなぐ形で大きく広がります。

普墺戦争は、オーストリアをドイツ統一から外しただけでなく、プロイセン自身の領土と影響力を拡大させた戦争でもありました。

プロイセンを中心とする北ドイツ連邦の成立

ドイツ連邦の解体後、プロイセンはマイン川より北にあるドイツ諸邦をまとめていきます。

1866年にはプロイセンを中心とする軍事同盟が作られ、翌1867年には憲法を持つ北ドイツ連邦が成立しました。

北ドイツ連邦は、複数の国がゆるやかに集まった従来のドイツ連邦とは異なり、共通の政府や議会を持つ連邦国家です。プロイセン国王が連邦主席となり、ビスマルクが連邦宰相を務めました。

北ドイツ連邦には議会も設けられ、成人男性による普通選挙で議員が選ばれました。一方で、軍事や外交をはじめとする重要な分野では、プロイセンが強い影響力を持っています。

なお、この時点では、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなどの南ドイツ諸国は参加しておらず、ドイツ地方の統一は完成していません。それでも、プロイセンを中心とする統一国家の土台が作られた意味は大きいものでした。

やがて北ドイツ連邦の制度や憲法は、1871年に成立するドイツ帝国にもほぼ引き継がれます。

イタリア統一にも影響を与えた

普墺戦争にプロイセン側で参戦したイタリア王国は、オーストリアが支配していたヴェネツィアを含むヴェネト地方の獲得を目指していました。

この普墺戦争でのイタリア軍は陸海の戦いでオーストリア軍に敗れましたが、プロイセンが北方の戦線でオーストリアを破ったため、戦後の講和ではヴェネト地方の移管が決まっています。

オーストリアはヴェネト地方をいったんフランスへ譲り、フランスからイタリアへ引き渡す形を取ります。1866年10月のウィーン条約と住民投票を経て、ヴェネト地方はイタリア王国に加わりました

これにより、普墺戦争はドイツ統一だけでなく、イタリア統一も大きく前進させたのです。

普墺戦争で何が変わったのか

普墺戦争は、わずか7週間ほどで決着した短い戦争でした。しかし、この戦争によって、ドイツ地方の政治的な枠組みは大きく変わります。

それまでドイツ統一をめぐって、プロイセンとオーストリアは主導権を争ってきました。普墺戦争に勝利したプロイセンは、この争いに決着をつけ、オーストリアをドイツ統一の枠組みから外します。

さらに、ウィーン会議後に成立したドイツ連邦は解体され、1867年にはプロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立しました。これにより、プロイセン主導のドイツ統一が大きく前進したのです。

また、プロイセンと同盟を結んで参戦したイタリアは、戦後にヴェネツィアを獲得しました。普墺戦争は、ドイツ統一とイタリア統一の両方を進展させた戦争だったといえます。

  • プロイセンがドイツ統一の主導権を握った
  • オーストリアがドイツ統一の枠組みから外れた
  • ドイツ連邦が解体された
  • プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立した
  • イタリアがヴェネツィアを獲得した

なお、南ドイツ諸国はまだ北ドイツ連邦に加わっておらず、ドイツ統一は完成していません。

南ドイツ諸国を含めた統一へ向かう次の転換点となったのが、1870年に始まる普仏戦争でした。

普墺戦争で何が変わったのか
普墺戦争で何が変わったのか(AIにて作成)
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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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