近代史

御前会議とは?天皇の前で「国の方針」を最終確認した会議

歴ブロ
御前会議(1944年)
御前会議(1944年)

御前会議(ごぜんかいぎ)は太平洋戦争前夜を説明するときによく登場する言葉ですが、本来は明治期~太平洋戦争終結時まで行われた会議のことを指しています。

御前会議は転換点で登場するため、結果だけ見ると「その場で突然、国の進路が決まる」ように見えがちですが、多くの場合、政策や軍事の検討・調整が別の場で進んだうえで、御前会議は最終確認の段階で開かれました。

ここでは、実際に御前会議がどんな役割を果たしていたのか、具体例と共に見ていきましょう。

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御前会議とは何か

山川の歴史総合用語解説に沿うと、御前会議は以下のように捉えると分かりやすいです。

そもそも当時(明治期~太平洋戦争終結時)の国家機構は、明治憲法のもとで政府(内閣)と軍(統帥)が別々に天皇に結びつく形になっていました。

大日本帝国憲法下の国家機構
大日本帝国憲法下の国家機構

そこで、軍事行動を伴う国策など政府と軍の意思統一が欠かせない重大局面では方針をそろえる必要がありました。そこで、天皇臨席のもとで国策として最終確認する運用する形がとられることがあります。この「天皇臨席で国策を最終確認する場面」を御前会議と呼びます(例:大本営政府連絡会議最高戦争指導会議が天皇臨席で行われる場合など)

要点だけ挙げると、次の通りです。

  • ふだんの意思決定(閣議や政府・軍の協議)の延長線上にある
  • 天皇臨席で国策を最終確認する会議
  • “御前”で行うことで、国家方針としての重みが増す

このため、御前会議は日常的に開かれる定例の会議というより、重要な国策を天皇の前で最終確認する形を指して使われることが多い言葉です。

何をする場だったのか

御前会議は、政府と軍の方針をそろえ、国の方針として形にするための場でした。外交をどう進めるか、期限をどう見るか、軍事準備をどこまで進めるかといった論点などを政府と軍のあいだで一本化し、「国としてこう進む」という方針を明確にする役割を持ちます。

また、御前会議として行われることで、国策が最終確認された形になり、国内外に対しても「意思決定が固まった」状態を示しやすくなります。さらに、交渉を続けるにしても準備を進めるにしても、「どこまで進めば次の段階に移るのか」という判断の基準が置かれやすい点も特徴です。時間が限られる局面では、この線引きがそのまま行動計画の土台になります。

要点だけまとめると以下の通りです。

  1. 政府と軍の方針を一本化する
    「外交はこう進める」「期限をどう見る」「軍事準備はどこまで進める」などを、国家方針としてまとめる。
  2. 国策を“最終確認”として確定させる
    重要局面では、国内外に対して「国の意思決定が固まった」状態を作る意味がある。
  3. 以後の行動の基準を作る
    交渉を続けるにしても、準備を進めるにしても、どの線を越えたら次に進むのか、判断の物差しとなる。

何をしない場だったのか

御前会議は誤解されやすいので、「何をしないか」も先に押さえておきます。ポイントは次の3つです。

  • 自由討論の場になりにくい
    もちろん意見が出ないわけではありませんが、一般にイメージされる“議会的な討論”とは別物です。
  • 天皇が政策を細部まで指示する場ではない
    「天皇が作戦や外交を具体的に命令した会議」と受け取ると、御前会議の性格が見えにくくなります。
  • 日常の実務会議ではない
    ふだんの行政・軍事の細かな調整は別の会議や機関で進みます。

つまり、御前会議は定例会議名というよりも国策を天皇臨席で最終確認する“場面”を指す呼び方ということです。

どんな御前会議があったのか?

1894(明治27)年の日清戦争開戦を決めた会議に始まり、三国干渉日露戦争日独伊三国同盟など、外交・軍事の重大局面で開かれてきました。

特によく知られているのが、開戦方針が固まっていく1941年と終戦ポツダム宣言受諾)に関わる1945年の局面です。

1941年の御前会議(開戦方針の最終確認)

1941年は、対米交渉を続けながらも「いつまでに結論が出なければ次の段階に移るのか」という判断期限が前面に出た時期でした。御前会議は、その判断期限を含む方針を国策として確定する場面で登場します。

  • 1941年9月6日
    御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。交渉継続と並行して、交渉期限を意識した方針が明確になる。

    背景には、7月の在米資産凍結以降、決済・輸入が許可制となり、石油調達が不安定化した事情がある。
  • 1941年11月5日
    同じく御前会議で国策「帝国国策遂行要領」の再確認。交渉の見通しが厳しい中、判断期限を12月1日午前0時(実質は11月末)までと明記した。
  • 1941年12月1日
    御前会議で対米英蘭への開戦方針を最終決定した。

1945年の御前会議(ポツダム宣言受諾)

御前会議は開戦前夜だけのものではありません。太平洋戦争末期の1945年8月14日には、ポツダム宣言受諾という国策の転換に関わる御前会議(最高戦争指導会議として開催)が開かれています。開戦だけでなく終戦の局面でも、国策を最終確認する場として用いられました。

戦時中にも複数回開かれた

御前会議は、戦局や外交の節目で国策の最終確認が必要になったときに開かれる性格が強く、戦時中にも複数回行われています。

御前会議を「最終確認の段階」として捉えると、1941年の交渉と準備が並走した意味が読み取れます。期限設定がどこで固定され、開戦方針がどの段階で確定したのかは、日米交渉の記事にまとめていますので、よかったらご覧ください。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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