江戸幕府での老中の地位は最高だったのか?
【老中】と【老臣】同じようなに意味に思われがちですが、似ているようで違います。
老臣は、その家を支える最高の家臣をさすのですが、【老中】は、あくまでも江戸幕府の役職名です。徳川家の老臣と言えば、家中で最も家柄の高い者を指しますが、幕府の最高職・老中を務めたものは必ずしも家柄の高い者が務めたとは言いませんでした。
徳川四天王家からは老中は排出しなかった!?
老臣はあくまでも【家臣】であるから、尾張・紀伊・水戸の御三家のような親藩大名は除かれます。老中は親藩と外様を除く譜代大名から選ばれることなっていました。
しかし、歴代の老中を見ていくと家康の代に【宿将】として称された井伊直政や榊原康政、本多忠勝、酒井忠次のような譜代大名でも徳川四天王家での老中排出は基本的に無く、老中を出す家が必ずしも高い家柄の譜代大名ではありませんでした。
これらの家柄の大名たちは、譜代大名としては破格の14万石以上の石高を持つようになっており、その領地も各地の要所に置かれ、土地をよく治め、兵を蓄え、有事の際には徳川家を守るようにと幕府の仕事なんか下の物にやらせておけと言う認識だったようです。
しかし、何事も例外はあるのもで、本多家と酒井家では数人ではありますが、特殊な事情で老中を排出しています。※特殊な事情は後述します。
老中の条件
老中は、基本的に三万石以上の城主・譜代大名から選ばればれました。しかし、三万石未満の大名が老中になった例もあり、その場合は昇進後に最低三万石まで加増されるのが通例でした。
余談ですが、一石=10万円で計算すると、3万石は年間30億円の収入があると計算できます。100万石が1000億とも言われています。※米価により変動あり
この三万石程度と言うのも理由があり、室町幕府のナンバー2である管領職のように、権力と領地を与えたら、将軍よりも力を持ってしまうので、老中に権力は与えても領地はそこそこしか与えませんでした。
先ほど、徳川四天王家の本多家と酒井家が特殊な事情で老中排出と書きましたが、その事情と言うのが、本多家が1709年に後継ぎがいなくなり、養子を立てたところ遺領のうち5万石しか与えられず、家格が低下し老中の条件に一致してしまった事での排出でした。
酒井家は少し事情がちがい、直系の当主がいなくなり分家から当主が出てきたことから、老中に抜擢されたと考えられています。
武家の官位・官職
江戸時代での武家の官位・官職について書いていきます。
大名たちは原則として官位を持っていました。この官位は、大名家の家格を構成するのに最も重要なものでした。官位を授ける権限は、幕府が持っていましたが、建前上では朝廷が任命をする形をとっていました。
本来は、定員1名の官職でしたが、1615年の禁中公家諸法度にて官職が公家と武家、武家内で複数名いてもよいと明文化されました。
武家官位・官職の特徴
武家官職は、侍従⇒権少将⇒権中将⇒参議⇒権中納言⇒権大納言となっており、大岡越前のような越前守などの国司名は、官位とはされず通り名官位とされました。
すべての大名に官位が与えられた訳ではなく、御三家や国主級大名家・有力譜代大名などの大名全体の約20%くらいにしか与えられませんでした。
官位構成は、従四位下少将ならば、
と言う構成になっています。
よって、官位はあるが官職には就いていない一般大名もおり、従五位下無官職ならば朝散大夫、従四位下無官職ならば四品(しほん)とよばれました。
下から順に並べていくと…
朝散大夫-四品-侍従-権少将-権中将-参議-権中納言-権大納言
と、なります。
ただし、官位が同じ場合は官職が優先され、従四位下少将は従四位下侍従より上で、従三位参議は権中納言より下と言う事になります。
以上を参考に、老中や各大名たちの官位を確認していきます。
老中の官位
将軍の正式名は【征夷大将軍】で朝廷から賜る官位ですが、同時に正二位内大臣に任命され、源氏長者とされています。将軍世子は、従二位権大納言で、御三家より正三位中納言・従二位大納言・従三位参議が与えられました。
外様大名でも前田家や島津家、伊達家などの大大名は正四位~従四位下くらいの官位が与えられました。そのほかの国持ち大名たちは従四位下侍従~少将に任じられ、一般の城持ち大名たちは、従五位下の官位が与えられました。
一方で、老中になった大名たちは、従四位侍従が与えられて国持ち大名と同格の官位が与えられました。
この四位と言う地位は、10万石以上の大名が当主となって30年経過すると、もらえる格式で、格式が上がると大名殿席が大広間へと移ることができます。しかし、格式は上がるが官職自体の変更はありません。
四位を受けてさらに、30年経過するとやっと従四位侍従を賜ることができます。
このように、従四位侍従とは一般の大名にとってはとても名誉な官位だったのです。そんな官位を、老中は一般大名くらい立場でもらう事が出来ました。
大名殿席
ここで殿席が出てきたので、少し触れていきます。
殿席とは、江戸城に出仕した時に城内部に詰める部屋の事を指します。
各大名の格式により控える部屋が異なり、大名間ではそれがステータスとなっていました。
殿中の詰所は大きく7つに区分されていました。
「大廊下」
将軍ゆかりの大名に与えられた最高の部屋で、【上の間】と【下の間】に分けられていました。上の間には御三家が、下の間には前田・島津・伊達家などの大大名が詰めていました。
「溜りの間」
将軍の臣下としては、最高の部屋で井伊家や会津松平家・高松松平家などが詰めていました。ほかの譜代大名たちは、帝艦の間に詰めていました。
「大広間」
御家門・外様大名で四位以上の者が詰めていたました。
「帝艦の間」
譜代大名のうち、三河時代からの重臣たちの子孫たちが詰めていました。 井伊家はその中でも別格だったようです。
「柳の間」
五位以上の外様大名の詰所が柳の間で、忠臣蔵で高家の吉良美央に斬りつけた、赤穂藩主浅野長矩は安芸浅野家の分家であることから、その詰所はここと考えられます。
「雁の間」
詰衆の控えの間となり、原則として城主か城主格が詰めました。
「菊の間縁頬」
詰衆並の控えの間であったが主に無城の者が詰めていました。
まとめ…
幕府と言うのは、徳川将軍家直轄の機関ですから、その運営も譜代大名と旗本・御家人などの徳川家の家臣達のみによって運営されていきます。そもそも、御三家などの親藩大名や外様大名には幕府の役職に就くと言う規定は最初からなく、幕政に口を出すことができませんでした。
幕府での発言力が高い=地位が高いではないので、もちろん身分は、大納言や中納言である御三家や前田家や伊達家や毛利家などの大大名のほうがずっと上です。考え方としては、偉いのでわざわざ幕府の仕事をする必要がないと思ってくれたらスッキリします。
【じゃぁ、吉宗の孫の親藩大名の松平定信はどうなのよ?老中だろうよ?】
って話になりますが、定信は御三卿の田安家から白河松平家と言う譜代大名の養子になったから老中の資格が取得できたからで、そのまま御三卿のままだったら幕政に口を出すことができなかったのです。
幕府の発言権と言う意味では、老中より大老のほうがあるのですが、摂政や関白と同じで綱吉時代の堀田正俊を除いては、いずれも完全な名誉職でした。
この老中制は、徳川家康の時代から様々な変化を経て幕末まで続いていきますが、その変化の過程は他の記事で書いていきたいと思います。