絵で見る!弥生時代から古墳時代までの流れ!!
弥生時代から古墳時代にかけての当時の状況はよく分かっていません。
大和王権がそもそも最初から畿内に拠点を置いてたか?もはっきりしていません。
そのうえで個人的に一番しっくりくる説を都合よく脳内補完して書いてます。ご注意下さい。
絵で見る!弥生時代~古墳時代
弥生時代になると、本格的に稲作が始まりました。紀元前300年ごろから紀元後300年のおよそ600年間の出来事です。
広い土地と水、多くの人を必要とします。リーダーが出てきたのも自然な流れと言えるでしょう。
計画的に生産が出来て人口が増えていきますが、稲作に適した土地は限られています。次第に争いや話し合いなどによる集落の拡大が見られるようになりました。ムラやクニの出現です。
そんな中、それぞれのムラやクニでは生き残り作戦を立てていきます。
様々な場所で鉄が普及するようになると、こんな作戦を立てるところも出てきます。
この作戦を立案した背景に『倭国大乱』(←魏志倭人伝などに書かれてある)があったと考えられます。
弥生時代中期から後期にかけて出現した
高地性集落
が、瀬戸内~近畿にかけて多く分布していたのがその根拠です(時期によっては九州北部や中部にもあったが、瀬戸内や近畿と比較すると非常に少ない)。
当時の先進地域は九州と山陰、人口が多かった地域は九州・近畿です。ひょっとすると九州は人口を多く擁することが出来る近畿のクニを放っておくことができなかったのかも知れません。
※古代は治水がしっかりしてないので水難が多く盆地に人が集まりやすい傾向にあります。その点、畿内には西日本で最も広い奈良盆地を要していて有利でした。しかも奈良盆地は単なる盆地ではなく当時は湖まであったそうです。水害が少ないのに水が多い稲作にものすごく向いていた土地と言えます。
しかも大阪湾へ注ぐ大和川と繋がる水源があるので交通の便も良い。歩くより船の移動の方がモノの交換等もしやすい当時、いずれ成長するのが確実な場所でした。
一時期、見事に畿内周辺の鉄器の出土数が少ないのが分かります。
さて。当時の先進地域は北部九州に限りません。出雲をはじめ山陰も大陸との交流が盛んな先進地域です。
この時の出雲周辺はきっとこんな感じです。
こうして出来たのが後の古墳にも繋がる四隅突出墳…かもしれません。
なお、大規模な墓を作るには多くの土を使います。土を大量に使うということは墓の近くに『水を溜める』設備を作ることを意味します。
権力を知らしめ、かつ稲作のための水確保、治水対策にもなる一石二鳥の公共事業が墓作りでした。
一方の畿内では鉄が回ってこないことで出雲をはじめとする山陰に目をつけます。
とにかく人も武器も多い九州に対抗するのに、人は多いが技術の少ない近畿のクニと人は少ないが技術はある出雲のクニの両者は結び付きやすい状況にありました。
この時の経緯が国譲りの神話として残っています。
実際に神話を見ると何度かの交渉を経て近畿のクニが武力を背景にクニを譲らせたような描写がありますが、出雲は出雲で神殿の建設を要求しているのでやられっぱなしということでもなかったようです。
こうして近畿地方に大規模な政治集団と大規模な墓が作られるようになり、古墳時代へ移行していくのです。