アケメネス朝はどんな国だったのか??
元々アケメネス朝は、アッシリア王国が分立した4か国のうちの一国、メディア王国に従属したペルシア王国がその従属関係を逆転させ征服したのが始まりです。
そんなアケメネス朝ペルシアについて今回は探っていこうと思います。
ペルシアってどこのこと??
上の地図は現在の中東地図ですが、そのうちのイランを指す古い名称がペルシアです。元々はイラン南西部のパールサ地方(こちらも古い名称)、現在のファールス地方と呼ばれる地域を指していた言葉が転じてイランを指す言葉になったと言われています。
アケメネス朝のはじまり
元々アケメネス朝の『アケメネス』とは王族の始祖と呼ばれる人物の名から取られています。とは言え、実在したのかしてないのかも分からない伝説上の人物なので詳細は省きます。
ペルシアの地はオリエント世界を統一させたアッシリア王国の崩壊後、現イランだけでなくアフガニスタンやパキスタンの一部まで領土を広げたメディアによって支配されていました。
アケメネス朝ペルシアを開いたキュロス2世は、メディアに服属していた小国ペルシア王国の皇子として生を受け、後々紀元前559年に王へ即位。
紀元前552年にキュロス2世がメディア王国に反旗を翻し、その二年後にはメディア王国内の貴族も引き続き共に戦い、メディア王国を滅ぼしイラン高原を制圧しました。
その後
- 紀元前549年 リディア
- 紀元前539年 新バビロニア
を滅ぼし、確実に領土を広げています。なお、キュロス2世は新バビロニアを滅ぼした際にはバビロン捕囚として新バビロニアの首都バビロンに強制移住させられたユダヤ人を開放しています。
カンビュセス二世によるオリエント世界の統一
カンビュセス2世はキュロス2世の息子でアケメネス朝2代目の王です。父王のキュロス2世はアケメネス朝が興る前に台頭していたオリエント世界の4つの国のうち3つを滅ぼし勢力下に治めていますから、息子で第2代目の王であるカンビュセス2世が唯一残っているエジプトを倒そうとするのは何ら不思議ではありません。
一方でエジプトを攻めるには一つ押さえておかなければならないことがありました。
どの国でも時代でも起こりうることですが、カンビュセス2世には弟が一人おり
ワンピース・ドレスローザ編の元ネタの時代なんで、読み直すのも面白いかも…著作権が問題なら後で差し替えます
『皇位を奪われるかもしれない』と考えました。そこでカンビュセス2世は秘密裏に弟を殺害し、王位簒奪に備えたと言われています。
ところが、その秘密裏に弟を殺害したことが裏目に。
カンビュセス2世がエジプト遠征中に弟のスメルディスを名乗るペルシア司祭(=マギ)のガウマタという人物が謀反を起こしたのです。
カンビュセス2世によるエジプト遠征は上手くいきましたが、更に南のクシュ王国へ攻めるも水が足りずに退却。エジプトより西部にあるフェニキア人による植民都市カルタゴにも進出できず…という結果となりました。
それでもカンビュセス2世はエジプトを陥落させたことで、アッシリア帝国以降はじめてオリエント世界を統一させたことになります。
結局、拠点での反乱もあってアフリカでの支配を広げることを断念。カンビュセス2世はペルシアへ戻って反乱軍を鎮圧しようと試みますが、失敗。鎮圧の可能性が殆どないことを悟り、最終的に紀元前522年、自害したとされています。
この反乱を鎮圧したとするのがペルシア人貴族で第3代国王となるダレイオス1世と彼の仲間6人でした。この計7人の中から王を選ぶ際、最初に「日の出とともに馬のいなないた者」がペルシア王になることにしようという話が出たということです。
ガウマタによるなりすましは本当だったのか??
ところが、カンビュセス2世の留守中に弟を名乗った『ガウマタ』という人物。近年ではガウマタが弟本人で、反乱を起こし王位簒奪したのがダレイオス1世だったのでは??というのが有力になっています。
カンビュセス2世は弟を殺害しておらず、留守番中にダレイオスが蜂起。
「スメルディスは王位継承争いに発展しないように既に国王に殺害されていた」ことにして「偽物のスメルディスを成敗→成敗したダレイオスが王位継承しましたよ」という形にしたのでしょう。
どうやらガウマタの件はプロパガンダがそのまま後世に伝わったみたいですね。
反乱軍の鎮圧とダレイオス1世の即位
後を継いだ時の本当の経緯は分かっていませんが、実際にカンビュセス2世の後を継いだのはペルシアでの反乱を鎮圧した貴族の一人・ダレイオス1世でした。
ダレイオス1世は内政を整備し、東征を成功させインド方面の支配とインドからエジプトへの航路も確立させています。
アケメネス朝を学ぶ際に覚えておいた方が良い人物はキュロス2世とダレイオス1世。ダレイオス一世はこれまで培ってきたアケメネス朝の政治体制を完成させたと言われています。実際にどんなことをしたのかまとめていきましょう。
中央集権国家体制の構築
20~29の州(=ダフユ)に分け、各州に知事(=サトラップ)を配備。そのサトラップの監視のために「王の耳」「王の目」と呼ばれる王直属の監察官を巡回させています。
強い中央集権国家を作るため、長さや量の単位を統一。長さや量の単位を統一することは、税の取り立てにかなり役立ちます。また、完全とは言えないまでも交易を活発にさせる貨幣制度も取り入れ、金貨・銀貨の発行を行っています。
アケメネス朝では地中海貿易で活躍したフェニキア人や砂漠での交易に活躍したアラム人の保護もしており、貨幣制度だけでなく交易に従事した諸民族の保護もまた商業基盤を整える要因となっていたようです。こうしてダレイオス1世の治世下では財政基盤が整えられていきました。
道路網の整備
交易ともかかわりの深いことですが、陸上では全国の要地を結ぶ国道「王の道」を整備しています。さらに都のスサを中心に駅伝制を整備させました。
駅伝制に関してはアケメネス朝が初めて取り入れた制度という訳でなく、アッシリア王国では既に確立されていた制度のようですが、知名度でいうとアケメネス朝の「王の道」の方が有名です。アッシリアで作られた道路を結び完成させたのが「王の道」と言えるかと思います。
駅伝制は伝令のための早馬を飛ばすことができるようになり、迅速な移動手段と情報伝達が可能となりました。
宗教
アケメネス朝に住むイラン人は領土内の諸民族の宗教を尊重しつつ、王家ではゾロアスター教(拝火教)を信仰していました。
ゾロアスター教とは…
この世を善(光明)の神アフラ=マズダと悪(暗黒)の神アーリマンとの絶え間ない闘争と説き、人間の幸福は、光明神の恩恵を得て、最後の審判により楽園にはいることにあるとした
詳説世界史B 山川出版社P.24より
宗教だとされています。
他の宗教も尊重したということで、おそらくゾロアスター教も恐らく他の信仰をしている者達から尊重されていたのでしょう。ユダヤ教やキリスト教に対してもゾロアスター教の教えが影響を与えたとされています。
以上のように、オリエント世界の統一王朝だったアッシリア王国の良い部分を受け入れつつダメなところ(=圧政、不寛容な部分)はアケメネス朝方式の寛大な統治を行っていきます。といってもアッシリアと比較して寛大と言うだけで不満を持つ地域もあったようです。
ペルシア戦争
紀元前6世紀半ば以降、キュロス2世から3代で一気に領土を広げた歪みが出てきます。ダイオレス1世の代でペルシア戦争が起こりました。
そもそもペルシア戦争は、アナトリア半島のイオニア地方の反乱が始まり(地図でアナトリア半島を見てみると『IONIE』の文字が見えます)。地図だとオレンジ部分がアケメネス朝になります。
イオニア地方にはミトレスなどのギリシア植民都市が多くあり、そういった植民都市はアテネをはじめとするギリシアの都市国家(ポリス)と友好関係にありました。
地図を見てわかる通り、イオニア地方は地中海貿易を行うのに最適な場所で、当時のアケメネス朝はギリシア南部にある多数のポリスと制海権を争っていました。
そんな中で発生したエーゲ海にある大きめの都市国家での内乱に首を突っ込んで、あわよくば制海権を獲ろうとしたのがミレトス(アナトリア半島西海岸沿いにあるギリシアの植民都市)の僭主(統治者)です。
アケメネスも寛大な統治をしていたとは言え、非常に重要な地域のため、この地域周辺には制約もつけていたようなので、僭主もアケメネス朝に対する影響力を増やそうと焦ったのかもしれません。
ところが、この内乱にミレトス持ちで戦費を突っ込んだにもかかわらずミレトスは敗退。アケメネスでの立場を失くした僭主は、ポリスの後ろ盾も受けて反乱することを決意します(イオニアの反乱)。
他のイオニア地方の僭主を捕らえて民衆に引き渡しただけでなく、ギリシア本土にも援助を求めたのが始まりとなってペルシア戦争が引き起こされたのです。
紀元前500年から始まったペルシア戦争は前449年まで続きます。この戦いでイオニア地方はアケメネス朝の支配からの独立を果たし、アケメネス朝はエーゲ海や地中海での立場を失うこととなりました。
もちろんアケメネス朝が支配領域を縮小したとはいえ大きな国には変わりありませんので、警戒してギリシアのポリスの多くはアテナイを盟主としたデロス同盟(紀元前478年~紀元前429年頃)を結んでいます。
アレクサンドロス大王の誕生
ペルシア戦争で負けたとはいえ、オリエント世界で依然として大きな勢力を保っていたアケメネス朝。そのオリエント世界での優位が崩れたのはヨーロッパ方面でマケドニアが軍事力を強め、全ギリシアのポリスを支配下に置いた後でした。
なお、この頃のギリシアはポリスの市民軍ではなく市民の身分から転落して金で雇われる傭兵が流行だったそうで、時代によってポリス社会も変容しています。
アケメネス朝はペルシア戦争の敗北やポリス間の同盟もあってギリシア人同士が互いに争うように仕向けていましたので、マケドニアのアレクサンドロス大王はアケメネス朝の干渉を防ぐために東方遠征に出発。これが紀元前334年のことです。
結局、アケメネス朝はこのアレクサンドロス大王による東方遠征で紀元前331年滅ぼされることとなりました。