分かりやすい初期議会について<明治時代>
大日本帝国憲法下における法律と予算を審議する最高立法機関・帝国議会では、1890(明治23)年を皮切りに最低でも年に一度、基本的な会期は約1か月(長い時には約3か月)にわたって何度も討論が交わされました。
そのうち、1890年の第1議会から日清戦争(1894~95年)が起こる直前に行われた第6議会までを初期議会と呼んでいます。
新しい仕組みは機能してなんぼです。ある程度機能するようになる前の始まったばかりで安定しない頃の議会を初期議会と言うことで、他の時期に行われた議会と区別しています。
ここでは初期議会で討論された内容について分かりやすくまとめていきます。
第一回帝国議会(1890年11月29日~1891年3月7日)
第一次山縣有朋内閣が提出した利益線防衛のための軍拡予算案に対し、国民たちの選挙で選ばれた衆議院議員たちは彼らの利益を重視する「民力休養・政費削減」を主張。議会は紛糾しました。
民衆は生活のためにも出来ることなら税金少な目でやっていきたいですからね。今も昔も変わりません。
なお、利益線とは国境の外にありながら日本の国境(主権線)を守れる可能性を持つ朝鮮半島のこと。
当時の西欧列強によるアジア進出が着々と進んでいる事態に対して日本政府の中心に近い者たちの多くは「朝鮮半島が列強の手に落ちることだけは避けたい」と考えていたのです。
ところが
- 近隣の清やロシアに比較し、日本の軍事力が劣っていたこと
- 1850年代から出始めたシベリア鉄道建設計画が本格的になっていたこと
から日本の安全が脅かされると感じるようになります。
ロシアによりシベリアを横断する鉄道が敷かれれば「東端への軍事力と補給の大量輸送が可能。朝鮮が落ちれば日本もまずい。」ということですね。日本政府としては「できることなら朝鮮を勢力下において緩衝地帯としたい」と考えますが、かねてから清は朝鮮を冊封国としていました。
そんな背景から、日本は清といつ戦争が起こってもおかしくなく「軍拡をした方が良い」と内閣が予算案を提出したのです。
- 朝鮮半島における日本と清の対立を詳しく
-
この頃の朝鮮はかねてからの立場であった清の冊封国を維持するか、西欧列強にやられた清を見て危機感を覚え近代化を目指すかで内部が分裂しています(後者を開化派と呼ぶ)。
日本としては開化派で近代化してもらう方がロシアの防波堤となるのでありがたいですし、明治政府が進める殖産興業の政策にもマッチすると期待されていました。また、開化派のうち急進的な独立党が既に近代化を進めていた日本に協力を得ようとして両者が接近。
当然ながら親清派・清と開化派・日本の関係は悪化しました。
そんな中で日本の指導下で軍政改革を行うことに反発して壬午軍乱(1882年)が、日本寄りの独立党によるクーデター甲申政変(1884年)が起こるなど日本と清が敵対する状況が続いていたのです。
結局、反対多数ではありましたが、衆議院議員の自由党員の一部に工作を仕掛けて予算を可決させています。
第二回帝国議会(1891年11月26日~12月25日)
前回と同様に軍拡を念頭に置いて海軍の艦艇建造費・製鋼所設立を見据えた予算案を第一次松方正義内閣が提出しました。「民力休養・政費節減」の方針を変えていない民党とは第二回帝国議会でも激しいやり取りが交わされています。
この時に演説したのが海軍大臣の樺山実紀(かばやますけのり)。樺山もまた旧薩摩藩出身で、藩閥政治の正当性や民党の「民力休養・政費節減」を否定する『蛮勇演説』を行いました。
また、立憲改進党所属の田中正造議員による足尾銅山鉱毒事件の質問が出されるなど、かなり内閣にとって厳しい議会となっています。
その結果、第二回の議会において早くも衆議院解散が決定。第二回衆議院議員選挙が決まりましたが、松方内閣下の内務大臣・品川弥次郎による選挙干渉で民党側を中心に死者25名、負傷者388名が出たとされています。
それだけでなく民党と吏党の対立の激化は明治25年板垣退助暗殺事件未遂事件まで引き起こしました。
※暗殺事件なのに「明治25年」とついているのは板垣退助の暗殺未遂が何度も起きているためです。知っている限り5度目...
それでも結局は吏党が多少の議席を伸ばしたものの民党有利は変わりません。選挙干渉は失敗に終わり品川内相は責任を取って辞任しています。
第三回帝国議会(1892年5月6日~6月14日)
第二回帝国議会が紛糾し、衆院議員解散となったことで第三回帝国議会の特別会が1892年5月から開催されました。予算案自体も議会で否決され、松方内閣は総辞職に追い込まれます。
というように、帝国議会…中でも衆議院は荒れまくりました。衆議院では成立当初から乱闘騒ぎがたびたび起きていたそうです(貴族院はほぼなかったとも)。
第三回までの状況が続いたのを見る限り、超然主義が姿を消して議会を尊重しようというのも納得できる状況ですね。
第一回帝国議会が開催されてから民党が掲げる「民力休養・政費節減」と藩閥政府が掲げる富国強兵路線はどうしても対立してしまったのでした。
第四回帝国議会(1892年11月29日~2月28日)
松方内閣総辞職の際に首相の松方に推薦されて成立したのが第二次伊藤博文内閣です。元勲と呼ばれる明治維新の功労者を総動員して成立した内閣で元勲内閣と言われました。
そんな内閣をもってしても第二回議会以降から内閣が希望する『海軍増強を求める予算案』は民党に阻まれてなかなか成立しませんでした。
埒が明かないと考えた衆議院では内閣弾劾上奏案を可決した一方で、ヨーロッパ視察という新体制を作り上げる前段階から帝国議会設立に至るまで携わっていた伊藤は、憲法において唯一主権を有し、議会じゃどうすることもできない明治天皇に相談して「和衷協同の詔書」を出してもらいます。
意訳すると、詔書には
宮廷の経費削減などで浮いた資金を建艦費に充てるよう下賜するから、軍艦建造に議会も協力せよ
という内容が書かれていました。
また、同時に
このままじゃ予算案は通過しない。
民党に歩み寄ろう。
と衆議院の中で最も多く議席を持つ板垣退助総裁率いる自由党と近づくことに決め、以後、藩閥政府と政党が近づくこととなります。
ただし、帝国議会だけに妥協させる状況は受け入れ難いでしょうから海軍をはじめ行政整理を行って組織の効率化を図ることを約束し、予算案は無事に通過しました。
第五回帝国議会(1893年11月28日~12月30日)
1893年7月の段階で陸奥宗光外相が閣議に条約改正案を提出。日本と同じく、ロシアと敵対するイギリスとの交渉を始め(ロシアとイギリスの敵対関係が後に日英同盟を結ぶ理由です)、条約改正に向けて大詰めを迎えた中で始まったのが第五回帝国議会でした。
- なぜイギリスがロシアと敵対したの?
上の地図は1878年の世界情勢を表した地図です。
当時のイギリスは経済面を支える植民地の要・インドと本国を行き来する時に、ロシアの南下政策が非常に邪魔になっていました。
この時点で既にオスマン帝国支配下のエジプトでスエズ運河が開通(1869年)済みでイギリスーエジプトーインドのルートが出来上がりつつあり、どうしてもバルカン半島やイラン・アフガニスタンでぶつかってしまったのです。
そんな理由でイギリスとロシアは敵対するようになっています。
前回からの流れで内閣と自由党の接近に危機感を持っていた他の民党・立憲改進党などが「今の条約を守るべき」と主張して日英通商航海条約締結を反対する党派連合・対外硬六派(硬六派)を結成します。完全な対等条約以外を認めなかったのです。
※日英通商航海条約は幕末に締結した日米修好通商条約を改定したもので、領事裁判権の撤廃や関税自主権の部分的回復、最恵国待遇の相互化といった不平等条約からの脱出を図る第一歩になる条約でした。硬六派は『関税自主権の部分的回復』の部分で反対していたようです。
硬六派は自由党出身の衆議院議長の不祥事を追求し、不信任決議案を提出。同議案が可決した者の衆議院議長は辞職を拒否するなどの問題が起こって最終的に衆議院が解散するまでに至りました。こうして1894年3月には第三回衆議院選挙が行われています。
当時と今では見方が違うのかもしれませんが...
与党の案に野党が反対する構図に見えてしまいました。
第六回帝国議会(1894年5月15日~6月2日)
第五回帝国議会で衆議院解散が行われたことから、衆議院選挙後に改めて特別会が開会しました。選挙で民党が最大議席の約3分の2を占めますが、自由党も硬六派も過半数を得られなかったようです。
これが最後の初期議会となりました。
硬六派の反対で日英通商航海条約が進まないことから、内閣と協力体制を布く自由党内で「内閣は譲歩せざるを得ないだろう」と更なる行政整理を求める意見が出てきます。
結局、議会では硬六派が内閣不信任と条例改正反対の上奏が、自由党からは行政整理と条約断行の議案が提出されたものの互いに潰しあったため、全く決議ができない状況が続いたのでした。
結局、わずか18日目で衆議院は再度解散されることになります。
日清戦争の発生
全く進まなかった第六回帝国議会でしたが、事態は急変します。
これまで反対されていたにも関わらず、日英通商航海条約の交渉を進めて27日には合意にこぎつけ7月16日には調印。
さらに7月25日には以前から危惧していた日清戦争がいよいよ勃発すると状況は一変し、議会は全会一致の体制で戦争に必要な予算・法律案をどんどん可決させることとなったのです。
こうして初期議会は幕を閉じ、帝国議会は新たな段階に進んでいくのでした。