日本の戦後復興とGHQの民主化政策
太平洋戦争敗戦直後の日本は深刻なダメージを受けていました。
物不足で通貨が乱発されたために驚異的なインフレが起き、食料不足で多くの国民が餓鬼線上にさまよいました。また、大量の軍人や引揚者がいたために、多くの人が職を必要とし、失業者の増加が心配されました。
GHQによる経済の民主化政策
こうした状況の中、日本を占領したアメリカなどの連合国は、日本国内の経済の民主化など、様々な改革を施していくことになります。
農地改革
戦前の農民はほとんどが小作農でとても貧しく、そのため国内市場が狭く日本は市場をアジアへと求め侵略を始めたとされます。そこで、GHQは農民の貧困が日本の対外侵略の動機となったとして、農民を押さえつけていた地主や小作制度を廃止し安定的な自作農経営を行うように改革をしました。
1946年に、自作農創設特別措置法が制定され、5年間かけて実施されました。
不在地主である全小作地と在村地主でも約1haを超える農地は政府が安く買い上げて小作農民に格安で売り渡されました。
不在地主=地主が別の地域に住んでいる事
在村地主=地主が住んでいる地域の事
この政策で、高利の地代に苦しんでいた多くの小作農民たちは自作農者となり、1940年に30%くらいだった自作農率が、1950年には62%と倍増し小作農地は全体の10%くらいまで減少しました。
これまで、小作農は地主が訪れると土下座をさせられたが、こういった封建的な関係からも解放され、農民の生産意欲が高まり生産力も向上しました。
その一方で、山林については手は付けられておらず、政策としては少し詰めが甘いところも残されていました。
財閥解体
これまで日本の経済界をけん引し、戦争とも深い関係を持っていた【三井・三菱・住友・安田】に代表される15の財閥の資産凍結と解体が命じられました。
かつて、財閥企業の本社社員はボーナスで東京の一軒家が買えたそうで、そのボーナスで物件を買った社員は、その家を貸出し、老後は家賃収入だけで生活していけたというから驚きです。
では、なぜに財閥が解体されたのか?
アメリカは、資源が少ない日本が【大和・武蔵】と言った世界一の戦艦を作れたのは、財閥の力があったからと考えたのです。財閥は、戦前の日本経済を支配し軍需産業の担い手であり、それを支えていたいました。
こうした財閥による独占をなくし、経済の民主化=自由競争の実現させ日本の経済力を弱める目的もそこにあったようです。
1946年に、持株会社整理委員会が発足し、持株会社・財閥家族が所有する株式をとりあげ、これを一般に売りだし、株式を所有することによる傘下企業の支配をなくそうとしました。
財閥のトップたちは財界を追放され、残った若い世代が会社の重役となり、経営陣の若返りが図られた。この財閥解体によって、ソニーやホンダと言った財閥系以外の新しい会社が戦後の経済の発展の原動力となって行きました。
また、大資本の利益独占を防ぎ、市場に競争をもたらすことを目的として、1947年に独占禁止法が制定され、カルテル・トラストが禁止されました。同年には、合併などで経済力が集中している巨大独占企業は分割されることになりました。
しかし、この政策は非軍事化・民主化路線から共産主義に対する壁として日本経済の復興に重点を置くようになると、財閥解体は不十分なままで終わり、その資本は形を変えて残りました。
過度経済力集中排除法による大企業の分割作業も、当初の325社から終わってみれば、11社にとどまってしまいました。
教育の民主化
こうした民主化の政策は、日本が外国に侵略されないように内需拡大を目的として行われましたが、労働者である国民たちの生活水準を上げないと内需拡大ができないと考えたGHQは、教育の民主化にもメスを入れました。
自由な教育を行えば、多様な意見が生まれ、国民総戦争へと向かう事がないだろうと考えたのです。
財閥解体後の企業
日本の経済を活性化して、グループ企業以外でも発展できるように財閥解体を行いました。
財閥系の安田銀行が解体を経て富士銀行となり日本興業銀行⇒第一勧業銀行を経て現在のみずほ銀行の流れを汲んでいます。
今でも三菱と名前がつく企業は、丸の内で食事会をしビールの銘柄キリンビールで乾杯をしているのは、これらの企業が三菱の関連企業だからです。
過度経済力集中排除法で、大日本ビールがアサヒビールと日本ビールに分かれ、さらに日本ビールがサッポロビールになりました。大日本ビールが解体した事で、キリンビールが対等に競争ができるようになり現在も互いに凌ぎを削っています。
鋼鉄業界でも、日本製鉄が分割され、八幡製鉄と富士製鉄となったことで競争が始まり、川崎製鉄と住友金属が進出してきました。しかし、経済のグローバル化で外国企業と戦える企業になると言う事で、分割された八幡製鉄・富士製鉄は合併し新日本製鉄となり、さらに住友金属と合併し新日鐵住金となりました。
労働三権の確立と労働組合の育成
1945年 ⇒労働組合法の制定。団結権・団体交渉権・争議権が承認。
1946年 ⇒労働関係調整法が制定される。
1947年 ⇒労働者を劣悪な労働条件から守るため、労働基準法が制定。
労働基準法の内容
8時間労働や男女の同一賃金などが規定された。ちなみにこの労働時間8時間とは、これ以上の時間毎日働いたら命の危険がありますよと言う基準で決められらたそうです。
皆さんの企業では、どうでしょうか?
戦後のインフレ対策
1946年には金融緊急措置令が出される。
インフレを抑えるために預金封鎖や新円への切り替えを行いました。
既に流通している日本銀行券を回収と流通の停止をするために、旧札を銀行に預金するように呼びかけました。そして、預金の引き出しを新札で少しづつ引き出させるように呼びかけ、引き出し金額の制限も設けました。
こうしてインフレも徐々に終息していきました。
1946年には、経済安定本部を設置し傾斜生産方式を行います。
傾斜生産方式とは、限られた物資・資金・労働力を、石炭・鉄鋼・肥料などの基幹産業に重点的に配分し、優先的に復興させようとした政策で、1947年~1948年まで実施されました。
しかし、政府には資金がなかったので、1947年には復興金融金庫も設立し、そこから債権を発行し日本銀行が引き受ける形で資金を調達しました。こうして、石炭・鉄鋼の増産が進み一定の成果が得られました。
復興金融公庫からの融資は結果的に、日銀にお金を印刷させたようなものだったので、インフレが加速していく結果となりました。
経済安定9原則
GHQは1948年に、吉田茂内閣に対し経済安定9原則を指令します。
その内容は、経済安定とインフレを抑えるために発したもので、
- 予算の均衡( 赤字のない予算にする )
- 徴税強化
- 賃金安定
- 為替管理
- 輸出の振興
などが主な内容で、この経済安定9原則を達成するために銀行家のドッジがGHQの経済顧問として来日しました。
ドッジの竹馬経済論
日本経済は、地に両足をつけておらず竹馬に乗っている状態で、片方はアメリカの援助でもう片方は国内的な補助金の機構でした。そのため、竹馬の足を高くしすぎると転んで折れる恐れがあるので、直ちに縮める必要があるとドッジは考えました。
そこで、1949年にドッジ=ラインが実施されました。
インフレを抑えるために国の支出を税金で賄えるように縮小し、赤字を出さない予算編成【超均衡財政】をしました。また、竹馬の片足の【政府補助金】を打ち切り、復興金融金庫は廃止し、債権の発行停止政策を行い、もう一つの足であるアメリカの援助で産業再建を図りました。
単一為替レートの設定
これまでの為替相場には、商品ごとにその時々で決まる無数の為替ルートが存在していましたが、1ドル=360円に為替相場を設定しました。
さらに、日本税制の近代化のために1949年にシャウプ勧告を出しました。
これは、所得税中心主義( 直接税中心主義 )・累進課税制度採用とするもので、1950年に日本が全面的にこの改革を受け入れて税制改革を行いました。しかし、インフレは終息しましたが、財政支出の減少と増税のために不景気なり、中小企業の多くが倒産したり省庁や民間企業では人員整理が行われ失業者があふれました。
1949年に中華人民共和国が成立し、共産主義の拡大に伴いGHQは、日本の占領方針を【民主化と非軍事化】から【極東における反共の防壁】にする方向へ転換し、重化学工業に対する制限を解きました。
朝鮮戦争特需と復興
1950年に朝鮮戦争が始まると、日本にはアメリカの軍需品の生産・修理・輸送の注文が殺到しました。この特別な需要をきっかけに、ドッジラインの強行で深刻な不況に落ちこんでいた日本経済は、皮肉にも息を吹き返しました。
この特需景気で生産力は戦前の水準にまで回復し、その後の高度経済成長期へと日本は進んでいきます…