本能寺の変で織田信長が討たれた時にガッツポーズで喜んだのは誰??
1582年6月2日、織田信長が明智光秀によって討たれた。
誰もが知っている本能寺の変ですが、時を同じくして信長の嫡男・信忠も二条城で襲撃を受け、奮戦むなしく自刃しました。唯一、信長の弟・長益(有楽斎)が逃げ延びたと言います。
この事件は日本の歴史を変えるほどの出来事で、織田家の人間だけではなく日本全国の人々に少なからずの影響を与えたのではないのだろうか。その後の織田家は、滅びはしなかったものの、秀吉に乗っ取られる形でその影響力が失われていきました。
このブログでも本能寺の変についてたくさん紹介してきましたが、今回は趣向を変えて本能寺の変で信長が討たれたと知った時、ガッツポーズで喜んだであろう人物を考えてみたいと思います。
『本能寺で信長死す』喜んだのは誰?
まず、信長が討たれて喜んだのは、秀吉や家康と答える人が多いと思います。
本能寺の変でも黒幕説や怨恨説がささやかれている状況で、これまで織田信長は光秀以外に多くの人から恨みを買っていたのは間違いない事実です。現代社会でも、地位や名誉、富を得るとその過程の中で恨みを買い、正直に生きていても逆恨みされる事がありますよね。
信長のこれまでやって来た事とその個性を考えると『信長本能寺にて討たれる』の知らせを喜んだ人は多かったでしょう。
現代を生きている私たちは通常、嫌いな人が亡くなってもガッツポーズをするほど喜びはしないものです。しかし、自分の生命・財産・家族など脅かした、仇となったらどうだろうか?
もし、自分の肉親が他人に殺されたら、法でいくら裁かれようと自分で手を下さない限りその恨みは消えないものです。
と、話が長くなりましたが、こうした事を踏まえて信長に恨みを持ってたであろう人物を紹介して行きましょう。
足利義昭
命こそ奪われませんでしたが征夷大将軍の地位を追われ、京都からも追い出されているのが義昭です。信長のおかげで将軍になった時は、同年代でありながら信長に対して父と呼び、管領や副将軍の地位を与え、その恩に報いようとしました。
しかし、信長の義昭に対する扱いは、大名が将軍に対してとる態度ではありませんでした。
いくら将軍にしてもらったとは云え、自分はただのお飾りだったと分かれば義昭も面白くはありません。こうして徐々に信長と対立を深めていき、最終的には京を追われ毛利輝元に身を寄せる事になりました。
その後は、各大名家に信長包囲網を呼びかけたりと打倒信長に執念を燃やしていました。本能寺の変の実行犯である明智光秀を裏で糸を引いていたのではないかと言う説もあります。
都合の良い時だけ自分を利用し、用がなくなればその地位を追われ、将軍でありながら流浪の身となりました。そのきっかけを作った織田信長の死を知った義昭は、発狂するほど喜んだのではないかと思います。
今川氏真
織田信長が父・今川義元を討ったことでその歯車が全て狂ったと言っていいでしょう。
普通に考えても、親の仇を恨まないはずがありません。
今川家滅亡は、氏真自身の采配が悪かったと言えばそれまでだが、決して氏真は君主として全くの凡愚ではありません。義元死後も駿府でまあまあ善政敷いており、実際に家康が駿府を支配するようになると苦労した様です。
さらに氏真は仇である信長から得意の蹴鞠披露を命じられ、生き恥を晒されています。いくら敵に降伏した武将でも、そんな屈辱的な命令を下す信長は人として礼儀はありません。
そんな相手が自業自得のような感じで家臣に討たれるのだから、本能寺の変を聞いた時に思わずガッツポーズをしたのではないかと思います。
正親町天皇
正親町天皇が即位した時は、朝廷・公家が困窮していました。
実際に正親町天皇の即位礼が数年延びたのも、資金的に困窮していた事に起因します。この時は、毛利元就からの献金より儀式が執り行われたそうです。
そこに現れたのが織田信長で、朝廷を立て直すと言う名目で京都を支配していきます。
いわば信長と天皇関係は、先の【後白河法皇と源頼朝】や【後醍醐天皇と足利尊氏】関係に近い物ではないかと思います。後白河法皇よりは腹黒い感じはしないが、正親町天皇は上記の二人の天皇のようなやり手であった可能性があります。
だが、信長と付き合っていくうちに天皇自身の想像をはるかに超えた考え方に、手に負えなくなっていきました。征夷大将軍も摂政も関白の地位も辞退し、元々持っていた右大臣の官職もあっさり返します。
律令制上、天皇は日本で一番偉く、鎌倉・室町時代も表向きは、天皇から委任された状態で日本を治めていることになっています。しかし、信長はその偉い人のさらに上に行くものとして君臨し始めるのです。
そんな背景からか、正親町天皇には信長暗殺黒幕の疑惑もあります。
疑惑はどうあれ、本能寺の変で信長の報を聞いた時には【まさに邪魔者が消えた】と口角が上がらずにはいられなかったのではないかと思います。
本能寺の変前から交戦中だった大名たち
当時、信長と交戦中だったのが、毛利氏・上杉氏・長宗我部氏・北条氏でした。
本能寺の変で一番命拾いしたのは、長宗我部氏と毛利氏ではないかと思います。
やはりここでは秀吉と戦いってた毛利輝元でしょう。
間違いなく、このまま攻められていたら毛利氏は滅亡の危機になっていたと思います。しかし、毛利輝元も吉川元春の主張を取り入れて、秀吉を挟撃していたら歴史は変わっていたかもしれません。
それをやらなかったから、毛利輝元は豊臣政権で五大老になったのだが…
一方で、上杉と北条氏はまだ底力があったと思うので、軍団長が攻めてくるくらいならびくともしなかったでしょう。実際に、関東を攻略していた滝川一益は北条氏政にコテンパンにやられています。
どちらかというと、両氏は信長が死んで織田家との全面対決が無くなった事で、ホッとしたと言うのが率直な感想でしょうか?
長曾我部氏も、これから四国へ攻め込むところでしたが、実行されることなく四国方面総大将・織田信忠が明智光秀に討たれた事で命拾いしました。