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ルイス=フロイスから見た織田信長の性格は恐怖ばかりではなった!?

歴ブロ

安土桃山時代のポルトガル宣教師・ルイス=フロイスは、母国に報告をするために日本の事について書いています。その中に、織田信長について書かれてもいます。

信長に関する史料として、太田牛一の【信長公記】がありますが、このフロイスが書いた【日本史】は、日本人が書くものとは違い忖度が無いので、最も現実に近い書かれ方をしていると思われます。

一般的な織田信長のイメージは、大うつけや自分に反対する者や勢力には容赦ない性格を想像する人が多いと思っています。比叡山焼き討ちや荒木村重一族の処刑、浅井長政の件などを思い出す方が多いと感じます。

他にも、信長を暗殺しようとした杉谷善住坊の処刑では、首から下を地中に埋めてわざと切れ味の悪い竹のノコギリで首を少しずつ切り落としたとも言われています。

このように残忍なエピソードを挙げればきりがない織田信長はやっぱり私たちのイメージ通りの人物だったのでしょうか?

そこで今回は、織田信長の性格を先述したルイス=フロイスの書き残した【日本史】をもとに紹介して行きたいと思います。

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ルイス=フロイスによる織田信長の印象

フロイスによれば、織田信長は【体はヒョロッとやせ形で、髭は少なく、声は甲高い、武芸を好み下品で荒々しく、お酒はほとんど飲まない】と記しています。

※現代風にわかりやすく訳しています。

甲高い声は、500m先からも聞こえるくらいだったようです。

声で一般的な性格が分かると言うサイトがちらほらあり色々なサイトを総合すると、甲高い声で話す人は神経質で自己中心的な人が多いそうです。また、興奮しやすく自分の考えが正しいと思う事が多く、他人にも考えを押し付ける傾向が強いらしいです。

これはあくまでも傾向なので、すべての人が当てはまるわけではないので悪しからず。

ここまでみると、私たちのイメージ通りの織田信長ではあるようですが、フロイスが感じた生の信長像が記されている【日本史】の内容を一部抜粋してみました。

  1. 睡眠時間は短く、早朝に起床した。
  2. 酒は飲まず、食事は控えめにした。
  3. 自宅において極めて清潔だった。
  4. 極度に戦を好み、軍事的鍛錬にいそしみ、名誉に富み、正義において厳格だった。
  5. とても性急で激昂はするが、平素はそうでもなかった。
  6. 自分のあらゆる事にとても丹念に仕上げた。
  7. 貪欲ではなく、決断を秘めていて戦術には極めて老練だった。
  8. 対談で長引くことやだらだらした前置きを嫌った。
  9. 戦運が悪くても心持ちが広く、忍耐強かった。
  10. 困難な企てに着手するときは極めて大胆不敵だった。
  11. 人の扱いには極めて率直であり、自らの見解には尊大だった。
  12. 自分への侮辱は許さず、懲罰せずにはいられなかった。
  13. 家臣の忠告にはほぼ、あるいは全く従わず、一同から畏敬されていた。
  14. いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
  15. 身分の低い家来とも親しく話をした。
  16. 神や仏のすべて礼拝や尊崇、占いや迷信的慣習を軽蔑した
  17. 将軍や大名など、日本のすべての有力者達を軽蔑した。
  18. 有力者(天皇含む)に対してさえも上から目線だった。

※一部現代風に読みやすくしています

出典:ルイス=フロイス『日本史』

この箇条書きを見ると、自分にも厳しく、他人にも厳しいイメージがあります。味方である内はいい人そうですが、一旦敵となると地獄の果てまで追ってきそうですね。

また、信長の仕事ぶりに関しては、

  • 戦術には老練、戦況が悪くても忍耐強く、明晰な判断力を持っていた。
  • 難しい事に当たるときは大胆不敵で、家来たちは信長の言葉に服従した。
  • 信長は稀に見る優秀な人物で、優秀な司令官として、賢明さを持って国を治めていたのは間違いない。

こうした事を見ると、戦国大名としての資質は他の大名より群を抜いていたように感じます。この大胆不敵さで桶狭間の戦いを制したのでしょうか??

織田信長の心温まるエピソード

ルイス=フロイスは、【正義感と慈悲に関係ある事は喜んで実行する男】と評しています。

第六天魔王と呼ばれた織田信長に正義感と慈悲とは似合わない言葉が出てきました。

信長公記では、以下の心温まるエピソードがありました。

美濃と近江の国境近く、現在の関ヶ原町山中に【山中の猿】と呼ばれている体に障害のある男が街道沿いで乞食として暮らしていました。この頃は岐阜と京都を頻繁に行き来していた信長は、障害がある事で普通の生活が出来ずにいたこの男を見かけては気になっていたようです。

1575年の上洛中に、山中村の人々を集めた信長は、木綿20反を【山中の猿】に与え、【これを金に換えてこの者に小屋を建ててやれ。それから。この者が飢えないように毎年、麦や米を施してくれれば、自分はとてもうれしい】と村人に頼んだそうです。

出典:信長公記

この信長の行動は、山中の猿・本人だけではなく、その場に居た村人までも涙を流したと伝えられています。とても、ドクロでお酒を飲んだ人と同一人物とは思えないエピソードです。

また、信長は部下にも優しさを見せつ時があり、秀吉の浮気に起こった【ねね】に対して信長は、ねねの味方になり以下の内容の手紙を送っています。

私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。

その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。

そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。

そなたの美貌もいつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。

藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしからぬことだ。

どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように

ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。

この手紙は、羽柴(秀吉)にも見せること。

実は信長は秀吉の事をサルとは呼んでおらず、【禿ネズミ】と呼んでいました。

あの恐怖の塊のような信長には考えられないくらいの、心使いが分かる手紙だと思います。これは、自分の妻にあてた手紙ではなく、家臣の妻にあてられた手紙なんです。

宣教師のフロイスにも、国に残した両親の心配をしたり、気を遣う一面も見せています。

信長は優しさだけではなく、楽しい事も好きで、相撲の大会を開いたり、安土城をライトアップして城下の人々を楽しませたりと、信長自らが先頭に立ってイベントを計画して参加していました。

家族にも優しい織田信長

信長は、当時では珍しく女性に気を遣う事で知られていました。

先述した秀吉とねねの夫婦喧嘩の仲裁もそうですが、信長の最初の妻・生駒氏をもっとも寵愛していました。彼女との間には、信忠・信雄・徳姫(松平信康の妻)を儲けています。

側室でありながら、生駒への寵愛ぶりから正室扱いを受けていました。また、尾張に妻を残して仕事に行った家臣を叱責したりと、家庭を大切にするよい夫でした。

優しいけれどやっぱり織田信長でした

フロイスは【傲慢で神をも恐れぬ人物で、名誉を重んじることこの上なし。決断を内に秘め、軽々しく外に表すことがなく、戦術も巧みである。戦術を立てる際に部下の進言を聞き入れることは滅多にない】と書き記しています。

やはり信長、他人の意見は聞かず、実際に教育係の平手政秀は信長の行動をいさめるために切腹しました。説教にしてはどうにも過激ですが、政秀の死後信長は菩提を弔うために政秀寺を建立しました。

他にも、【すばらしい理解力と明晰な判断力を持ち、神仏やその偶像を軽視し、卜占など全く意に介さない。他人と語る場合は、その相手が回りくどい説明などすると、すぐに嫌な顔を見せる】とフロイスは書いています。

神をも恐れず、神仏を軽視していた信長は、自分の意見と合わないものや約束や規則を破る人が嫌いだったようで、その憎悪は執拗でとても執念深かったようです。

延暦寺も女子供問わず焼き討ちにしていますし、家督争いの際に信長の弟・信行を擁立して信長を排斥しようとしていた者達を20年以上も経ってからその話を持ち出し、追放しています。

延暦寺については、僧たちが権力や軍事力を持ったり、女に溺れる等、宗教としての意義を忘れているとしか思えない僧侶たちの腐敗ぶりを批判しての行動でした。理由がわかれば、仕方がないかなと思いますが、やるときはとことんやるタイプなので、女子問わず焼き討ちにしたのが後世の非道に通づることになります。

よく言えば、正義感が強く、曲がったことが大嫌いと言ったところでしょうか?

真意はわかりませんが信長が神や神仏を信じなくなった理由をうかがえる記述として、

父の信秀が瀕死のとき、信長は仏の僧侶に祈祷を願い、僧侶たちは信秀の病気が回復すると保証したが、信秀は数日後に亡くなった。これに信長は僧侶たちを監禁し、彼らのうちの数人を射殺したという。

出典:ルイス=フロイス『日本史』

二条城普請工事の際も

信長が上洛して将軍義昭を誕生させた翌年の永禄12年(1569年)には、御所として二条城を築城したが、このとき信長は、建築用の石が不足していたため、多数の石像を倒して工事現場まで運ばせた。そして、京の民たちはこれらの石像に畏敬の念を抱いていたため、恐れおののいたという。

出典:ルイス=フロイス『日本史』

神・仏を信じない信長にとっては石造の類はただの石ころだったようです。

こうしてみると織田信長は、超が付くくらいの合理的な人物だったように感じます。

  • 信長は「自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しない」 と言った。
  • 自分自身が単なる人間ではなく、あたかも神的生命を得て、不滅の主であるかのように、すべての人から礼拝されることを望んだ。
  • 「自分以外に礼拝に値する者はいない」 と言うまでに至った。
  • 安土城内には神社がなく、信長は「自分自身が神体である」 と言っていた。
  • 安土城内に寺を建立し、自分の誕生日には、領内のすべての者にその寺への礼拝を強要した。
出典:ルイス=フロイス『日本史』

天下統一目前の信長は、自分を神的な存在で自分を礼拝するように言い出すのですが、これも、居るかいないかもわからない神・仏より、実際にこの国を治めて良くしようとする、実在の自分を崇めよって事なのだと思います。

ルイス=フロイスの書いた【日本史】は、当時の事を外国人が本国への報告のために忖度なしに書いている事から、非常に有益な一次史料となっています。この記事を通して、信長の性格は厳しい人だった事は間違いなさそうです。

しかし、人生最初から最後までそうだったかと言うと少し疑問が残ります。

一連の信長のブラックなエピソードは、天下取りを目前とする付近で行われていら傾向にあります。小国の一大名だった自分が天下を目前として、いたたまれない恐怖に襲われ人格が変わったのかもしれません。

現に秀吉も、天下取りの後は秀次の粛清や朝鮮出兵などの失策が多いような気がします。

今回は、ルイス=フロイスの日本史をもとに信長の性格を紐解いて見ましたが、もう少し読み込んで違うネタを紹介できたらと思います。

追伸

少し、宣伝じみて申し訳ありません。

この度、お誘いがあり、yahooクリエイターズプログラムに参加する事になりました。

各種手続きを経て、5月10日より第一作の記事を投稿しております。内容は、日本史が中心で、大河ドラマネタを中心に、その時話題になった人物などを書いて行こうかなと思っています。

また、逃げ上手の若君ネタもやって行こうかなと思っています。

誰にでもわかりやすくサラッと書いているので、興味のあるかたはのぞいてみてください。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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