江戸時代

大奥女中は自由と引き換えに幕府から手厚い保護が受けられた!?

歴ブロ

大奥は、1618年に二代目・徳川秀忠が大奥法度を定めて、徳川将軍家以外は大奥と言う名称を使う事を禁止しました。将軍家以外の正室や側室の住む場所は奥向きと呼ばれ、大奥は江戸城だけのものとなります。

徳川家康が江戸城にいたころも大奥と呼ばれる場所はありましたが、政治を行う場所を【】、城主とその家族や私的な生活の場所を【】と呼んでいました。時代が進むにつれて政治を行う場所は以前と変わらず【】のままでしたが、将軍が政務を行う【中奥】と将軍の私邸を【大奥】と呼ぶようになりました。

この大奥が三代目・徳川家光の乳母・春日局によって組織的な整備が行われたことによって、現在に知られる形となりました。

大奥の簡単な概要を説明したところで、今回は大奥務める女中について書いて見たいと思います。

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大奥勤めは良縁への近道!?

大奥は一生奉公と呼ばれていますが、実は死ぬまで勤め上げる人は少なく、よほど役職が高くなければ11年務めるとが言い渡され退職となりました。その対象者は、豪農や商家の娘が多く、彼女たちも大奥勤めが花嫁修業の一環としてとらえていました。

当時は、大奥勤めが良縁に結び付いていたようです。

商家の娘の場合、娘が大奥勤めをすることで大奥の出入り業者になり得たため商売の役に立ちました。実際に、道具商の中小企業規模の山田屋は大奥勤めだった祖母の存在が大きく、一橋家・江戸城大奥本丸御用を請けるまでになっています。

大奥に勤めていた女性たちは、退職後も同僚たちと手紙のやり取りをしていました。

大奥に出入りも可能だったので山田屋の祖母も辞めてからも大奥に売り込みに行っていたのかもしれません。こうした、奥女中のネットワークを商人たちは、注目していたのです。

大奥奉公をすれば、農民や商人・職人の娘でも武家との結婚も可能だったと言います。

武家側も大奥奉公している女性は武家のしきたりを理解し、人を使うことが出来さらには火と付き合いも上手だと考えられていました。

ある幕末の武士は、生涯4度結婚しており、その4番目の娘が大工の娘で11代将軍・家斉時代の大奥女中でした。花・茶道、和歌の教養があり、明るく家の事も上手にこなしていた事からその武士にとっては理想の妻だったようです。

子に恵まれなかったが、夫婦仲は良く、連れ子達との関係も良好で使用人も含めて一家がその妻を中心にまとまっていました。

上記は成功例ですが、中には退職して結婚をするものの、夫が死んだり、さまざまな理由から離婚をすると女性たちは再び大奥奉公する者もいました。

一方で、役職が高い者たちは仕えている主が亡くなるまで務めることになります。一生奉公とは自身ではなく仕える主の一生なのです。しかし、退職を強要するわけではないので全体の3割ほどは勤め続けたと言います。

大奥女中たちの退職後の年金と給料

大奥の給料は、基本給の他に衣装手当と言った自分が雇った部屋方の雇用手当に、薪・墨などの暖房手当、味噌・塩・醤油と言った食事補助までありました。また、30年以上勤め上げると年金がつきました。

上位の役職には、上臈御年寄(2700万)・御年寄(1500万)・御中臈(700万)があり、城下に屋敷も与えられて、その屋敷を賃貸して収益を得ていたと言います。

しかし、お目見え以下になると給料は下がり、一番下の御半下では年収で90万程でしたが、それでも町家で働く住み込みの女性の倍以上の給料だったので、大奥はあこがれの職場だったようです。

大奥のに入り、上位の役職を目指す場合は、どこの派閥に所属しているかで昇進が決まる。要するに、どの側室に仕えるかがとても重要な要素となります。

10代半ばで、大奥に奉公に上がり自由を制限される人生を送ることになる大奥女中たちは、その自由と引き換えに幕府が一生面倒見てくれる場合がありました

彼女たち30年以上務め退職すると、現役時代と遜色ない手当が支給されました。

主が亡くなり、勤続年数が30年を超えている場合には、髪を下ろすことが許されます。亡き主の菩提を弔う事を意味し、名前も院号にふさわしいものに改めます。

彼女たちが退職した場合、現役中の基本給か手当の多い方が支給され、上臈御年寄の場合で年間360万以上の手当がもらえました。

これだけあれば、江戸のどこでも家を借りても十分暮らしていける金額です。また、現役中に与えられた屋敷に住み、養子をとって自分を始祖とする家を興すことも出来たと言います。

こうした手厚い年金も、幕末の財政難のあおりを受けて1854年に縮小されてしまいました。

徳川吉宗の大奥改革

大奥の改革で有名なのは、8代将軍・吉宗でしょう。

大奥の最盛期でお目通りの叶わない女中を含めて1000人から3000人務めていたとされています。徳川吉宗時代には、400人程度に縮小され、9代・家斉は350人ほど、幕末の家茂時代まで同水準で推移しています。

吉宗はこの400人の中からさらに美人を選別して50人ほどリストラしたと言います。

吉宗いわく「美人は貰い手があるから」と言っていますが、その通りで美人はやはりそれなりに身なりにお金をかけたがる傾向にあったようで、こうした者たちをリストラする事によって経費削減につながったようです。

また、美人は虚栄心が強く吉宗の側室になろうと権力争いが絶えなかったそうで、こうした事に吉宗が嫌気がさしたとも言われています。実際に「女は貞操で嫉妬深くない方が良い」とむしろ女性の容姿に関心が無かったようです。

先述した、大奥の役職のちょうど真ん中くらいの美人50人ほど選抜した様で、彼女らの給料は年間550万程。それが50人だから丁度年間2億7500万円の経費削減につながったとされています。

実際に、それ以上の手当があったようですので、それ以上の経費削減につながりました。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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