江戸時代に専業主婦の概念はなく、女性もバリバリ働いていた!?
近年、女性の社会進出と言われるようになりましたが、一昔前までは女性は結婚したら家庭に入ると言う考えが強くありました。江戸時代こそ、男尊女卑、封建社会のイメージが強くて専業婦の考え方が強く感じましたが、現代よりもバリバリ女性が働いていました。
江戸時代の女性のお仕事
ルックス重視の接客業
いつの時代も、看板娘として多くの美女たちが客寄せのため愛想よく接客をしていました。得に独身男性たちに人気が高く、非常に浮世絵のモデルとなるほどの美女も登場し、アイドル的な存在だったそうです。
アイドルの誕生!水茶屋
【水茶屋】とは、寺の境内や門前、行楽地や人通りの良いところに屋台を出して、お茶などを提供した、今で言う【移動カフェ】的なもの。その接客に、美人さんが行っていたそうで、中でも看板娘のお仙は、何度も美人画のモデルとなるほどの人気で江戸のアイドルになりました。さらに、手ぬぐいやフィギュアなどのお仙ちゃんグッツモ売り出されていたようで、現代の〇KB48と変わらないと感じでした。
夏季限定の麦湯店
夏季の夜だけに登場する【麦湯屋】で、麦湯とは麦茶の事で夏の定番ドリンクとして人気がありました。その看板娘として、若い・かわいい・愛嬌よしの15歳くらいの女子が接客をしていました。涼しげな浴衣姿と薄化粧を施した若い女性は、たちまち江戸の男性たちのハートをつかんだようです。
江戸時代は楊枝屋がたくさんあった
浅草観音の境内や参道沿いにたくさんあった楊枝屋さん。
爪楊枝を売っているのですが、ほかにも歯ブラシとして使っていた【房楊枝】や【歯磨き粉】【お歯黒の粉】なども売っていました。
客商売は全般に言えることですが、この楊枝屋の看板娘にも浮世絵のモデルになるほどの美人さんを置いており、得にお藤は水茶屋のお仙と共に【明和三大美女】と呼ばれていたそうです。
体力勝負の飲食業
庶民文化が花開いた江戸時代は、外食産業が発展しました。
庶民向けの【一膳飯屋】やセレブ御用達の【高級料亭】まで、さまざまな飲食店が誕生しました。料理屋で働く女性は、体力勝負で大きな大皿に盛られたたくさんの料理を運ぶのは重労働だったのです。そのため、居酒屋では女性店員はほとんどいなかったようで、時代劇などの見る女性店員はほぼ創造だそうです。
狙った獲物は逃さな留女(とめおんな)
宿場町に多くいたのが留女で、宿場にやって来た旅人がうちに泊まっていきなさいと首根っこを引っ張るほどの強引さが必要でした。現代風に言うと客引きですが、御油(ごゆ)と呼ばれる宿場町の留女はしつこいと有名だったそうです。
物を売る仕事・行商
一昔前までは、リアカーを引いたおばあちゃんが干物などを売りに来た姿を思い出しますが、江戸時代でも移動販売を仕事にした女性たちがいました。
おばあちゃんのお仕事、糊売り
江戸時の糊は、お米などのでんぷんから作られていました。
着物や障子の張替などに使われた【姫糊】は、大きな桶に紐をくくり肩からぶら下げて売り歩いていました。これを聞く限り体力勝負な仕事のようですが、江戸や上方でも老婆の仕事として認知されていました。
枝豆売りは、ママさんの仕事だった
枝豆の旬である夏の夕暮れ時に現れたのが枝豆売りでした。
江戸では、ゆでた豆を枝つきのまま売られていたことから【枝豆】と呼ばれ、上方では枝を取った状態で売るので【さや豆】と言ったそうです。江戸の豆売りは、ママさんが子供を背負いながら売り歩いていたことから、ママさんの仕事として認識されていました。
旬の味覚、鮎売り
初夏の味覚として当時も人気がった鮎。
江戸で消費される鮎は、多摩川でとれたもので【鮎売り】の女性が、川から四谷の鮎問屋まで歩いて徹夜で運んでいたそうです。
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特技を生かした技術職
御物師(おものし)
江戸時代には既製品の衣類などはなかったので、衣類はすべて裁縫で賄っており、世の女性たちの必須スキルとなっていました。ほころびた着物の直しから、季節ごとの衣替えもすべて手縫いで仕立てていました。
そのため、裁縫が得意な女性は、仕事に困りませんでした。
そういった女性たちは、御物師(おものし)と言って、公家や武家のお屋敷や寺院、大店などで着物の直しや仕立てをしていたそうです。
産婆(さんば)
現代の出産は、選択肢が豊富にあり、病院や助産院で産む人や自宅で産む人様々です。
一方で、江戸時代は、自宅出産が基本でその時に活躍したのが、産婆さんです。
【取り上げ婆】とも言われていたそうですが、現代の助産師的な職業でしたが、当時は資格もなければ試験もありません。その代わり、たくさんの赤子を取り上げてきたという豊富な経験が必要でした。
女髪結い
この時代の女性たちは自分たちで髪を結っていましたが、遊女や歌舞伎の女形のような立派な髪形を真似したくても中々できませんでした。そこで誕生したのが、女髪結いでした。
女髪結いが登場した当初は、一回200文(40000円)とかなりの高額だったが、一般女性たちの利用が増えると安価になって行きまいした。しかし、贅沢を禁じていた幕府は、女髪結いを廃止し、命令に背いた場合は厳しい罰則を科していました。それでも、オシャレに対する女性たちの情熱は抑えることができず、幕府と女性たちのイタチごっこが幕末まで続きました。
人に教える先生のお仕事
手習(てならい)の女師匠
手習いとは寺子屋の事で、【読み・書き・そろばん】を子供たちに教えていました。
主に、僧侶や武士、医者などが兼業で行っていましたが、江戸のような都市部では、女性の師匠が存在していたました。
芸能分野
三味線の師匠
歌舞伎などが発達したこの時代は、その伴奏として三味線が使われていました。
他にも、酒の席や花見の席などでも活躍し、特に男性たちがこぞって三味線の稽古に通うようになりました。また、女の子の習い事としても人気が出ていたようでした。
鳥追(とりおい)
三味線が上手くなると、鳥追(とりおい)と呼ばれる正月限定の美人芸人が、祝い唄を歌いチップをもらっていました。鳥追は江戸だけのもので、しかも、正月の元日から15日までという短期バイトでした。
手妻使い(てづまつかい)
手妻使い(てづまつかい)とは、マジシャンの事で、軽業や曲芸、手妻など様々な大道芸を見世物小屋で披露されていました。その一つに、「水芸」という水を使ったマジックがあり、女性による水芸が人気ありました。
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女性大活躍の業界・手工業
養蚕・機織り
江戸時代は、絹織物の原料であった生糸は長く輸出品のトップでした。
そんな養蚕業を支えたのが女性たちで、江戸時代を代表する名君・上杉鷹山が米沢藩で行った藩政改革で、藩士の妻や娘たちが労働力の中心となり養蚕から絹製品への生産までを手がけたのは有名な話しです。
綿摘み(わたつみ)
黒い塗り桶に綿を乗せ、それを少しずつ伸ばしていくのが綿摘みというお仕事です。
伸ばされた綿は、秋冬用の小袖に入れる防寒用の綿として使われたり、「綿帽子(わたぼうし)」という女性の外出用のかぶりものに加工されました。
占い師
人口が多かった江戸の町には、たくさんの占い師がおり、卜者(ぼくしゃ)や八卦見(はっけみ)などと呼ばれていました。浅草や両国など人が大勢集まる場所や交差点で商売をしていたようです。
巫女・市子
市子は、特定の神社に属していない巫女さんの事です。
神事に使う神アイテムである梓弓を鳴らし、神の名を唱え、神がかり状態となって生霊や死霊を口寄せし、その言葉を人々に伝えました。青森の恐山にいるイタコみたいなイメージでしょう。
性風俗業界
遊女
江戸の吉原、京の島原、大坂の新町は幕府公認の遊郭として栄え、多くの歌舞伎作品や文芸作品の舞台にもなりました。また、長崎の丸山遊郭は外国人を相手にした唯一の遊郭として、独特の文化を生みました。
華やかな衣装とゴージャスな髪飾りに身を包んだ美しい遊女たちは、吉原遊郭のトップに君臨する「花魁」ともなれば、その美しさ、芸の達者さ、知識の深さはものすごいものでした。誰もが憧れる花魁の天女のごとき姿は当時の最新ファッションの発信源にもなり、女性たちもこぞって真似をしたそうです。
夜鷹
吉原の遊女たちは幕府公認の存在なのに対し、夜鷹は非公認の存在でした。
江戸では夜鷹と呼ばれ、京では辻君(つじぎみ)、大坂では惣嫁(そうか)と呼ばれていました。
吉原に比べ、ものすごい安い値段で色を売りましたが、夜鷹のなかには性病にかかっている者も多く、買うほうもかなりのリスクでした。年齢を重ねている女性が多く化粧などで年齢をごまかして客をとっていたそうです。
湯女(ゆな)
表向きは、客の背中を流すなどの入浴中のサービスを行っていましたが、中には色を売ることもあり、むしろそっちのほうが人気でした。江戸だけでなく京や大坂、はたまた地方の温泉地にも湯女がいてたいへんな人気で、幕府公認の遊郭・吉原を脅かすまでに大流行した湯女を幕府も放置できず、風紀を乱すとして何度も禁止令を出しましたが、根絶させるまでにはいかなかったようです。
飯盛女(めしもりおんな)
こちらも幕府非公認の売春婦で、宿場にある宿屋が彼女らの仕事場でした。
江戸の吉原や京の島原といった幕府公認の遊郭にいる遊女以外の私娼の存在を幕府は禁ししていたようですが、飯盛女に関しては旅人の給仕をする下女と言う名目で黙認していました。
矢場(やば)女
矢場というのは、神社や盛り場などに設けられた弓を使った的当てゲーム場のことで、今でいうゲームセンターみたいなもの。楊弓場(ようきゅうば)とも言われ、そこで接客を行ったのが「矢場女」と呼ばれた若くて美しい女性たちでした。
サービスは次第に過激化していき、矢場の裏にある小部屋で矢場女に性的サービスをさせる店も増えていったそうです。
洗濯屋
当然この時代は、洗濯も手作業の仕事。
独身男性の多かった江戸の町では、洗濯代行は女性の仕事して重宝したそうです。
その他、炊事や掃除などの細々とした家事の代行もやっていたそうです。
大奥奉公
武家屋敷や大きな商家などに住み込み、主人家族の身の回りの世話や炊事、洗濯などの家事を行ったのが女中や下女と呼ばれた女性たちでした。
女性の奉公先にはいろいろありましたが、最高峰はもちろん江戸城大奥でした。
大奥女中には、旗本や御家人の娘がなるのが基本でしたが、最下級の下女にならば庶民の娘でもツテなどを使ってなることができまたそうです。
庶民の娘が大奥で出世することはほとんどありませんでしたが、大奥で働いていたというのは婚活においてハクがつきました。
今回紹介したのはごく一部で、調べればまだまだあり、都市部には都市部の仕事、農村部には農村ならではの女性の仕事があったようです。江戸時代は、専業主婦と言う概念がなく、男女とも様々な職業に就きたくましく生きていたようです。