明治時代から日本はすでに貿易大国だった!?
2021年の世界貿易輸出額は、1位の中国、2位アメリカ、3位ドイツ、4位オランダに続き日本が第5位となっています。※世界経済ネタ帳を参照
こうした日本のポジションを獲得したのは、戦後の高度経済成長と思われがちですが、実は元の位置に帰ってきただけに過ぎなかったのはご存じだろうか??
日本は明治時代から世界的な貿易大国だったのです。
日本の明治時代は貿易大国
1873年(明治6)~1877年(明治10)までの輸出額は年平均で約2億2100万円で、輸入額は2億6500万。時が流れ1908年(明治41)には、輸出額約44億、輸入額48億円と20倍の成長を遂げています。
明治時代の日本の主な輸入品は富国強兵のための機械製品や武器でした。
輸入ばかりだと国の富が無くなり貿易が出来なくなるります。規模を拡大しながら貿易を続けるのは、大量の輸入に見合う強い輸出力を得ることが大切でした。
これは植民地主義が根強かったこの時代において国の発展に不可欠な事です。
当時の発展途上国の多くは、輸入の際に先進国に代金の代わりに鉱山資源や国土を担保にした借り入れをしていました。こうした借りは、後々の権利を乗っ取られ、国土を奪われたりして発展の足かせになることが多々ありました。
ようするに日本は強い輸出力を持っていたからこそ、貿易大国になれたし西洋列強の植民地にされる事が無かったのです。
意外な製品がMaid in Japan
明治時代の意外なMaid in Japanが生糸でした。
生糸を作り出す蚕は病気に弱く飼育が非常に難しい生き物でした。日本では江戸時代から多くの藩が養蚕業に取り組んでおり、養蚕技術の研究も盛んにおこなわれていました。まさに世界的な生糸の生産国だったのです。
とは言え、世界的にも生糸の需要は多く、日本以外でもヨーロッパやアジアの他の国でも生糸は生産されていました。日本がこうしたライバル国に勝てたのは、二つの要因がありました。
日本が開国当時、ヨーロッパで蚕の病気が流行し生糸が品薄状態だったことともう一つは、アメリカでの生糸の需要増加にありました。
建国当初のアメリカでは、生糸を使った製品は贅沢品として需要が少なかったのですが、発展共に需要が増え20世紀初頭には世界の消費量38%を占める一大マーケットに成長していました。
ヨーロッパの生糸が品薄だったことで、全消費量の内7割を日本からの輸入に頼るようになったのです。
このような背景から、1909年には日本は世界最大の生糸輸出国となっていました。
世界工場イギリスとの輸出競争
この時期の貿易を書く上で欠かせないのが、綿花から糸を作る紡績業。
文明開化による工業化が進んだ結果、24時間操業の大規模な紡績会社が次々と誕生し、明治中期頃には重要な輸出産業となりました。
教科書などでは『先進国との激しい競争をしのいで成功を収めた』と書かれていますが、実情は少し違うようです。
世界の工場と呼ばれ、経済力・軍事力ともに最強だったイギリスの紡績業はお家芸で、アメリカやドイツの工業国でも手出しが出来ない程でした。さらに日本はイギリスから輸入した機械を使用しており、それをフル回転させても本家イギリスに勝てるわけがありません。
ところが、日本の紡績業成功にはちょっとした秘密がありました。
イギリスが生産する綿布は細い糸を紡いで作る薄手の商品に対し、日本は太い糸を紡いで作る厚手の綿布を生産していました。さらに東アジア圏では日本が生産する厚手の綿布が好まれていました。
つまり同じ紡績業としながら、日本とイギリスでは全く別の市場に向けて商売をしていたことで、それぞれの販売ルートを持っていたのでした。
製糸業の過酷なブラック体質
製糸業などの産業の発展によって日本の日本経済が躍進を遂げる一方で、従事している人々の労働環境は非常に過酷を極めていました。
当時の製糸工場の労働者は農村から身売りされた女工たちでした。
工場の多くが、1日22時間稼働の昼夜交代制で、女工は一日11時間働かせられ、残業もほぼ毎日ありました。繁忙期の労働時間はもっと増え、18時間労働はざらで休憩は一日3回の15分ずつ、食事も機械とお見合いをしてとっていました。
こんな過酷労働にもかかわらず、月給はわずか6円(現在の価値で2万円程)。しかも、契約期間中に退職をすると借金が残る仕組みになっていました。しかし、熟練工となると一年で家が建つほど収入を得るとも言われてましたが、実際の所はわかりません。
もちろんすべての工場がこのような状況ではなく、官営の機械製糸場の富岡製糸場の場合は、週休制で一日8時間労働と常識的な業務内容でした。しかし、政府が運営する官営の場合で、この労働条件だと工場が赤字続きだとされ、民間に払い下げられると急激にブラック化が進んで行く事に…
労働する工場の環境もまた劣悪で、工場内は換気もされず、粉塵が舞い、結核や眼病などを患うものが続出。工場側も休息や医者の診察を受けさせないために、死者や失明者を出すことも少なくありませんでした。
1919年の新聞で、工場での契約を終えて帰郷した女工の内15%は栄養不足や呼吸器疾患者だったと報じています。
こうしたブラック企業の背景には、製糸業が当時の日本にとって唯一国際競争力を持った産業だった事が大きいでしょう。まさに、製糸業こそが日本の経済の生命線だったという事なのです。