徳川家康の家紋はなぜ三つ葉葵なのか??その意味と由来
上記の家紋は、徳川家の三つ葉葵の紋で、家康が天下統一を果たしたことで、権威ある家紋になりました。時代劇ファンなら、水戸黄門のクライマックスシーンでよく見る印籠に刻まれたあの家紋です。
この三つ葉葵の家紋は、他の替紋がなく江戸幕府の統治が終わるまで使用されていました。
そこで今回は、2023年大河ドラマ『どうする家康』にちなんで徳川家康の家紋である葵紋の由来などを紹介していきたいと思います。
徳川家康の家紋「葵紋」
徳川家康の使用してた家紋は葵紋と呼ばれる三つ葉葵の家紋で、三つ葉葵の家紋は家康だけではなく、歴代将軍家や関係者も使用していました。
このお馴染みの三つ葉葵は丸い三つ葉葵を使用し、通称【徳川葵】と呼ばれています。
「葵紋」由来や詳細
元々、葵の紋様は二葉葵と呼ばれる植物に由来し、京都にある加茂神社の神紋がそのルーツになっています。実は三河武士たちは、加茂神社と密接な関係があるとされています。
徳川家の葵紋の使用は古く、全身の松平家にさかのぼります。
酒井氏や本多氏などの豪族は松平氏より先に葵紋を使用しており、この両氏のどちらかが松平氏に献上した説が残っています。また、新田源氏の流れをくむ加茂神社の氏子として威厳を証したかったようです。
家康の出身地三河地方には、松平氏が領地としていた松平郷があり、その別名も加茂郡と呼ばれ、賀茂氏と深いつながりが見られます。
話がそれますが、家康が松平から徳川に代えたのは今川氏から独立を果たした1566年の事で、この年に三河国を統一しています。この時、徳川を名乗ったのは家康一家のみで、他の松平一族はそのままで、【徳川は松平氏の中でも別格】と言う印象を内外に与えました。
さらに、江戸時代になる徳川を名乗れるのが将軍家と、家康の血を引く御三家に限りました。しかも、御三家出身でも分家などは、松平を名乗るようにと定めていました。
後に、田安・一橋・清水家が徳川を名乗れるようになりますが、徳川と言う名は家紋同様にその権威の保持に努めてきました。
三つ葉葵は架空の家紋!?
先述した通り、三つ葉葵の由来は二葉葵がルーツとされてきました。
この植物は、名の通り二枚の葉をしており三枚の葉を持つことが希少だとされています。
さらに、加茂神社の二葉葵と徳川の三つ葉葵は見ての通りデザインが異なります。おそらく、デザインの出所が、武士の信仰していた八幡宮の神紋が三巴紋である事と関連性があると考えられています。
また、家紋としてはフタバアオイをあしらった「葵紋」が古くあり、その後「三つ葉葵」の紋が派生したとも考えられています。
【葵紋】を徳川家康は独占していた!
関ケ原の合戦ご家康は葵紋の独占を始めます。豊臣秀吉も似たような事を行いましたが、少し勝手が違うようです。
天下統一を果たした徳川家康に対して朝廷は桐紋を使用するように要請します。桐紋と言うのは、右のような家紋でかつて足利将軍や織田信長、豊臣秀吉らに与えられた家紋でした。
朝廷は天皇家の家紋である桐紋を与えることで、その権威を徳川家に誇示しようと考えたのです。
しかし、家康はこの要請を断ります。
そして、自身の葵紋を権威ある家紋にするために天皇家の桐紋と菊の御紋と同じ権威のある家紋に仕立て上げていきます。かつて三河武士たちが使用してた葵紋を制限し、徳川家以外の使用を禁じ、葵紋の権威を高めさせたのです。
しかし、この禁止令に反対した家臣が居ました。本多忠勝です。
本多氏は加茂神社の神官が祖先だった事もあり、家康のこの決まりに文句を言ったようです。さすがの家康も特別に本多家に対しては葵紋の使用を許可したと言う逸話が残っています。
このような例外もありつつも、1723年に徳川吉宗が将軍となった時には葵紋の使用制限がさらに厳しく決められました。
この時に、徳川将軍家と御三家【紀伊徳川・尾張徳川・水戸徳川】やその一門しか葵紋を使用できなくなったのです。これで水戸徳川家の黄門様の印籠の【葵紋】の権威がいかに高い事か納得いきます。
こうして、葵紋は徳川家のシンボルとして権威を持たせることに成功しました。